終身助祭がいる教会

終身助祭がいる教会

カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/04/10/ 00:00]

助祭叙階式

助祭叙階式

今年の聖週間も聖木曜日から復活徹夜祭までの「聖なる三日間」は近くの鴨池教会の典礼に参加することにした。鴨池教会にはわたしが叙階した「終身助祭」がいて、うちの聖週間には叙階の秘跡の三つの位階、すなわち司教と司祭と助祭が揃っていると、うれしそうに話していた。そこで、その意味を少し考えたい。

カトリック信者ならだれでも知っていることであるが、叙階の秘跡に関する『カトリック教会のカテキズム』の教えをまず読んでみよう。

「叙階は、キリストから使徒たちにゆだねられた使命を世の終わりまで教会において続けさせる秘跡、つまり使徒の奉仕食の秘跡です。これには司教、司祭、助祭の三つの位階があります」(1536)。

「神の制定による教会的役職は、種々の位階において、古代から司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって執行されます(教会憲章28)。典礼、教導権および教会の一貫した慣習において説明されているカトリックの教えによれば、キリストの祭司職への役務としての参与には二つの段階があります。司教職と司祭職です。助祭職は両者を助け、両者に奉仕する職務です。従って、現在用いられている祭司(sacerdos)ということばは司教と司祭の呼び名であり、助祭を含みません。しかし、カトリックの教えに従って、祭司的参与の段階(司教と司祭)と奉仕の段階(助祭)の三つとも、「叙階」と呼ばれる秘跡によって授けられます」(1554)。

以上で、職務の内容は異なるが、叙階の秘跡に三つの位階があることは確かである。だが、長い間、ラテン教会(ローマ・カトリック教会)において助祭は司祭職に至るために通過すべき一つの段階として授けられるに留まって、生涯を通して恒久的に果たす職務としては用いられて来なかった。しかし、第2バチカン公会議は終身助祭制を復興した。『カトリック教会のカテキズム』は次のように説明する。

「第2バチカン公会議後、ラテン教会は助祭職を「聖職位階の固有の永続的な一つの段階として」(教会憲章29)復興しました。東方教会ではつねに助祭職を保持してきました。既婚者にも授けられるこの終身助祭職は、教会の使命を果たすために大いに役立ちます。教会の中で、典礼生活や司牧生活、あるいは社会事業や慈善事業などを通して真に奉仕の務めを果たす人々が「助祭職の秘跡的恩恵によってさらにいっそう効果的に果たしうるように、使徒たちから伝授された按手によって強められ、また、より密接に祭壇に結びつけられること」(教会憲章16)は適切で有益なことです」(1571)。

わたしが教区司教現役のころ、日本司教団では何回か終身助祭制のわが国への導入について話し合われたが、その必要性については必ずしも意見の一致をみることができず、ようやく1995年の定例司教総会において、終身助祭制の日本の教会への導入が正式に決議された。しかし、その実施は各教区司教の判断に任されたため、その実際の導入の足並みはそろっていない。

わたしは隣の那覇教区が終身助祭を導入したことによって大きな刺激を受け、終身助祭制について考えることになった。まず、第一に、第2バチカン公会議が永続的な助祭制を復興したことにはそれなりの意味があるのではないか。叙階の秘跡に三つの位階があることがその第一の理由であろう。第二に、そうである以上、助祭のいない教会の司祭は、「教会の基本的な組織の一部」(ベネディクト16世回勅『神は愛』21)となった助祭職の分も司祭が引き受けているか、あるいは助祭職の担当部分がすっかり抜けているということにならないか。このように考えているうちに、教会がその司牧・宣教の使命をきめ細かく、効果的に果たすためには、叙階の秘跡の恵みを最大限に生かすことが大切だと考えるようになった。初代教会において、使徒たちは助祭制を取り入れるにあたって、「わたしたちはもっぱら祈りと宣教に励みたい」(使徒行禄6,4)と言ったのである。聖パウロも「神からいただいた恵みを無駄にしないように」(2コリ6,1)と勧めている。

こうして、わたしは定年退職も迫った2006年9月19日、鹿児島司教区50周年記念のミサにおいて二人の終身助祭を叙階したのであった。