罪の世のあがないのために

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罪の世のあがないのために

カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/04/25/ 00:00]

チャペルのローソク台

チャペルのローソク台

今年も無事に聖週間を迎えることができた。そして、主の十字架の神秘を黙想しながら、毎日ミサを続けることの幸せを実感している。現役を引退した隠居の身であるわたしは、司教館のチャペルでミサをささげているのであるが、このミサには、少なくとも週5日は司教館にいるシスターたちに加えて隣りの修道院のシスターたち数名も参加してくれる。彼女らは三つの修道会に所属しており、国籍も日本のほか、ドイツ、ボリビアと多彩であり、先月まではチリ人のシスターもいた。また、ときにはパウロ会のブラザーや信徒たち、そして今はベトナム人女性も参加している。ミサは一人で捧げることもできるが、ミサは教会共同体の典礼であるから、参加者がいることが何よりである。

わたしの祭壇のローソク立ては少し変わっている(写真)。円筒形のこのローソク台はローマで見つけ、気に入ったので買い求めたもので、円筒の周りには13人の聖人たちの像が浮き彫りにされている。名前が付いていないからどんな聖人かはわからないが、後光が差しているから聖人のイメージであることは間違いない。なぜこんなローソク立てが気に入ったかと聞かれれば、地上のミサが天上の典礼と結ばれていることを思い出すためである。「ラテン教会の奉献文は、わたしたちの主にして神であるイエス・キリストの母である終生おとめマリア、天使、聖なる使徒、栄えある殉教者、そしてすべての聖人をたたえている」からであり、「いけにえの子羊を祝うことによって、わたしたちは天上の典礼と結ばれている」からである(回勅『聖体に生きる教会』19参照)。

引退後のわたしにとって毎日のミサはかけがえのない生きがいである。なぜなら、司牧者としては現役を引退しても、依然として司教であり、役務的祭司、かつ宣教師としては現役であるからであり、祭司である以上、ミサをささげることはその中心的な役務であることに変わりがないからである。ヨハネ・パウロ2世は書いている。「聖体が教会生活の中心であり頂点であるならば、それはまた司祭(司教)の役務の中心と頂点でもあります。だからこそ、主イエス・キリストへの満ちあふれる感謝の心をもって再び言います。聖体は祭司職の秘跡のおもな、そして中心的な存在理由です。実際、祭司職は、聖体の制定の瞬間に生まれました」(『聖体に生きる教会』31)。

それゆえ、毎日ミサをささげることは叙階された祭司(司教・司祭)としての務めを果たしていると同時に、自分が相変わらず司教として奉仕できることの証でもあり、従って、それはわたしのかけがえのない生きがいともなっているのである。では、ミサを続けることがなぜ生きがいかと聞かれれば、それは「罪の世のあがないのためである」と答えよう。人類のただ一人の救い主として、人間となってこの世に来られた神の独り子キリストは、全人類のすべての罪を一身に背負い、その尊いいのちを捧げて人類をあがなわれた。永久にただ一度だけささげられたこのいけにえは、すべての人のあがないとなり、その栄えある復活によって永遠の生命への道が開かれたのであった。そしてミサは、この一度だけのキリストのあがないの業と効果を永続させ、現在化する聖体祭儀なのである。

ヨハネ・パウロ2世は書いている。「イエス・キリストは、聖体を与えることによって、教会が過越の神秘(死と復活の神秘)を永遠に現存させるように命じました」(『聖体に生きる教会』5)。そして、さらに言われる。「過越の出来事と、この出来事を時代を超えて現存させる聖体には、歴史全体があがないの恵みを受けることができるようにさせるという、実に途方もない力があるのです」(同上)。

この世があらゆる罪悪に満ちていることはだれも否定できまい。すべての人に官憲に捕まるような法律違反はないとしても、秘められた個人の罪、中でも内心の悪しき思いや怠り(不作為)の罪のことを思えば、だれも潔白だとは言い張れないだろう。しかし、聖書は言う。「罪が増えたところには、恵みはさらにいっそう豊かになりました」(ローマ5,20)。そして、キリストご自身が言われる。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9,13)。神の愛、キリストの思いに信頼して、わたしは今日もミサをささげ、人類との罪の連帯の中で、赦しと平和を祈っている。