教会の成人年齢は18歳
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/08/25/ 00:00]
法務大臣から昨春諮問を受けていた法制審議会の民法成年年齢部会は先月20日、成人の年齢を20歳から18歳に引き下げることが適当とする最終報告書を取りまとめた。新聞報道などによると、国民の受け取り方は様々で、慎重論のほうが多いようにも見られる。この問題について、カトリック教会の立場から何が言えるであろうか。
わたしはまず、最終報告書をまとめた審議部会のメンバー構成に注目したい。朝日新聞(7月30日付)によれば、「経営者、心理学者、高校教師、労働組合幹部、マスコミ関係者など、部会の委員には、法律の専門家以外にも多彩な顔ぶれを集め、外に出て高校生や大学生の生の声も聞いた」となっているが、宗教家や哲学者など、人間の本性や人生についての専門家の参加がないのが気がかりである。人間の大人としての責任性を判断するのは単なる世論ではなく、人間性とその客観的な成長過程に関連する事柄だからである。
次に、現行の「成人年齢20歳」が決められたのは明治時代であったという事実に注目したい。朝日新聞は7月31日の社説で、「それからの教育制度の発展や民主主義の成熟といった社会や政治の激変を考えれば、20歳という線引きがどこまで有効なのか疑わしい」と述べるが、その通りだろう。わたしの子供のころと比べても、今の子供たちは小さい頃から様々な情報に触れ、様々な人間関係にもまれて早熟であり、世知に長けているように思う。だとすれば、自分に対しても世間に対しても早くから自己の責任を問い、また問われなければならないはずだ。今回の問題指摘は時宜を得ているのではないか。
新聞報道などによれば、成人年齢を18歳にしている世界の国々は多数派だという。客観的に見れば、これらの国々と比べ、日本の若者の成長が特に遅いとは言えないのではないか。もしそうだとしても、それは、過保護や教育環境の劣悪さに起因する恐れがある。そこで、成人年齢に関するカトリック教会の規定は参考になると思う。それは、一部例外はあるとしても一般的に見て満18歳が社会的責任を果たせる成熟した年齢であるという判断だと思われるからである。1983年に制定された新教会法典(Codex Juris Canonici)は次のように述べる。
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第97条 (1)年齢が満18歳に達した者は成年者であり、その年齢に達しない者は未成年者である。
(2)7歳未満の未成年者は幼児と呼ばれ、かつ、意思能力を欠く者とみなされる。満7歳以上の者は、理性を働かせるに至った者と推定される。
第98条 (1)成年者は自己の権利を完全に行使することができる。
(2)未成年者は、神法又は教会法により、親又は後見人の権限から除外される事項を除き、自己の権利の行使については親叉は後見人の権限に服する。後見人の指定又はその権限に関しては、国家法の規定が順守されなければならない。ただし、教会法のなかに別段の定めがある場合、又は教区司教が正当な理由にゆえに、別の後見人をたてるほうがよいと判断した場合はこの限りでない。
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この教会法上の規定は、言うまでもなく、教会の中で、教会の事柄について適用されるものであって、一般社会の中では民法の規定に従わなければならない。しかし、教会生活と市民生活の双方において成人年齢が異なるのは不便であり、この際、わが国の民法が成人年齢を18歳に引き下げることは歓迎すべきところである。
なお、成人年齢の引き下げに際し、責任ある社会人としての教育について付け加えておきたい。①責任ある社会人となるための「社会的徳」の最初の学校は「家庭」であること。子供たちはどこよりもまず家庭生活において人間関係を学び、互いに尊重し合い、愛し合って無償で奉仕することを学ばなければならない。②小学校高学年の年齢は「共同体」(社会)を意識し、ルールに従って行動し、協力することを学ぶ適期であると言われる。この年齢の子供たちが団体競技などでルールに厳しいことはよくみられるところである。③中学生の頃は子供から大人への過度期の年齢であって、自分の生き方(使命)の選択ができ、また、選択しなければならない年齢でもある。親以外に手本や理想とする人物に出会うことはそのために重要である。④そして最後に、しつけは中学生で終わり、高校生以降はもう大人として修養の時期であると同時に、成人となって独立する寸前の時代であるから、責任ある社会人となるための充実した最後の準備が求められる。現在の高校教育がそのために適切であるかどうかは、成人年齢の引き下げに際しては、検討される必要があるかもしれない。このあたりは専門家なり文化省の仕事であるが・・・。