なぜ、この世に罪があるのか

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > なぜ、この世に罪があるのか

なぜ、この世に罪があるのか

カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/02/25/ 00:00]

110111この世は罪悪に満ちている。「思い、言葉、行い、怠り」による大小様々の罪のことである。と言えば、「自分は罪を犯したことがない、自分は潔白だ」、と言い張る人がいるかも知れない。しかし、聖書は言う。「もし、わたしたちに罪はないと言うならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません」(1ヨハネ1,8)。それほどに聖書がこだわる罪とは何なのか、教会の教えの中にその神秘を探してみよう。

わたしがまだ大神学院の哲学科にいたころ、大窄教授はいった。「悪とはあるべき善の欠如である」(malum est defectus boni debiti)。そして、自分の頭を指さして「これたい、これたい」と言った。見ると、そこにはあるべき髪の毛がなかった。みんな大笑いしながら納得したものである。悪には物理的悪と道徳的悪があり、道徳的悪を罪と呼ぶことは周知の通り。

ところで、「罪の現実、わけても原罪の現実は、神の啓示に照らしてしか明らかにならない」(カトリック教会のカテキズム387)。罪の真相は「人間が神に結ばれている深いきずな」(同上386)を前提としているからである。実際、聖書は人祖アダムが悪魔の誘惑により、神に背いて不従順の罪を犯したと証言している(創世記第3章)。聖パウロは解説して、「一人の人間の罪によってすべての人間が有罪とされたように、一人の人間の正しい行為によって、すべての人間が正しい者とされ、いのちを与えられたのです。実に、一人の人間の不従順によって多くの者が罪びとにされたのと同じく、一人の従順によって多くの者が正しい者にされます」(ローマ5,18-19)。

原罪のほかに、人間は罪を犯す。創世記は、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」と述べ、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」(6,5・11) と述べるが、聖書には、ありとあらゆる罪の話がある。そして、これらの罪は、たとえ人や自然に対して犯されるものも、すべて至聖なる神への不従順であり忘恩であるので、その悪質性は無限だと言われ、有限の人間自身にはいかようにも償い得ないものである。「神ひとりのほかに、だれも罪を赦し得ない」(マルコ2,7)のである。

それゆえ神は人類の救いを約束され(創世記3,15)、そして、時満ちて御独り子を救い主として世に遣わされた。聖書は言う。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)。聖パウロは解説して言う。「わたしたちが罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、神はわたしたちに対するご自分の愛を示されているのです」ローマ5,8)。聖ヨハネは言う。「わたしたちが神を愛したからではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、あがないの供え物として、御子を遣わされました。ここに神の愛があるのです」(1ヨハネ4,10)。

ここにきて、神は人間が、被造物としての限界の故に、さらには悪魔の誘惑に打ち勝てない弱さのゆえに、罪を犯すことをなぜ容認されたかがわかる。聖アウグスチノは言う・全能の神は、・・・最高に善であられるので、」悪からでも善を引き出すほどに力ある善い方でなかったとしたら、その業のうちに何らの悪の存在もゆるさなかったはずである」。たとえ悪魔の妨害があり、人間の罪があったとしても、全能の父なる神は人類の救いに関する愛のご計画を必ず実現されるということであろう。この神の愛の神秘をたたえて、聖パウロは「罪が増えたところには、恵みはさらにいっそう豊かになりました」(ローマ5,20)と称えている。教会もまた、「おお、幸いなる罪とがよ」(復活賛歌)と、神の御子を地上に呼び下した人間の罪をたたえて歌ってきた。まさに、罪の神秘は神の愛の神秘に直結しているのである。

さる2月17日の灰の水曜日をもって今年の四旬節が始まった。あらためて罪の神秘と神の愛の神秘をじっくり黙想する季節にしたい。