洗礼の秘跡は霊的な戦いの始まり
カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/04/10/ 00:00]
さて、洗礼の秘跡とは何であろうか。念のため、『カトリック教会のカテキズム』の説明を見てみよう。カテキズムは言う。「聖なる洗礼はキリスト者の生活全体の基礎、霊的生活の扉、他の諸秘跡に導く入口です。洗礼によってわたしたちは罪から解放され、キリストの肢体となり、教会の一員となって、その使命に参与する者となります。『洗礼は水とことばによる再生の秘跡です』」(1213)。
続けて言う。「使徒聖パウロによれば、信じる者は洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストともに葬られ、復活します」(1227)。次は聖パウロの言葉である。「洗礼を受けてキリスト・イエズスと一致したわたしたちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか。わたしたちはその死にあずかるために、洗礼によってキリストともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者のうちから復活させられたように、わたしたちもまた、新しいいのちに歩むためです」(ローマ6,3-4)。
要するに、洗礼を受ける者は、キリストとともに死んで、キリストとともに神のいのちに生きるという意味である。換言すれば、それは、原罪を背負っている古い自分に死んで、神のいのちに生きる新しい人間になるという意味であろう。キリストは言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分のいのちを救おうと望む者は、それを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを得る」(マタイ16,24-25)。第2バチカン公会議は次のように言い換える。「人間は、自らを純粋に与えてはじめて、完全に自分を見出すことができる」(現代世界憲章24)。自分を捨てることによって自分を実現するという、キリスト教の大逆説である。
さらに、自分に死んで神に生きるということは、洗礼を受けた一時のことではなく、肉体の死をもって霊肉ともにキリストの死に結ばれるまで、つまり、一生涯のことである。いわば、一生涯、死に続けるということであろう。とすれば、これは大変なことである。わたしたちは洗礼を受けて罪を赦されても、原罪によって傷ついた人間本性は弱められたままであり、いつも内外の誘惑にさらされており、神を裏切って自分に生きようとする自我がいつまでも残るから、一生かけて自分に死んで神に生きるためには、毎日が霊的な戦いの連続になることは必定である。従って、洗礼の秘跡は霊的な戦いの始まりである。だから、洗礼の後、新信者は堅信の秘跡によって強められ、闇の勢力と戦う「キリストの兵士」(miles Christi)となる。
『カトリック教会のカテキズム』は教えている。「原罪の教え――キリストによる贖罪の教えと対をなすもの――は、人間の状況と世界における人間の行為とについての明晰な識別の目を与えます。人間は自由を失ってはいませんが、人祖の罪の結果、悪魔にある程度支配されるようになりました。原罪は、『死の国を所有する悪魔の権力下に置かれた奴隷状態』(トリエント公会議)をもたらしました。人間本性が傷つき、悪に傾いている事実を無視することは、教育、政治、社会活動、道徳の分野で重大な過ちを生じさせます」(407)。
だから、主キリストは弟子たちに言われた。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ」(マタイ26,41)。主が教えてくださった「主の祈り」においても、「わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください」(マタイ6,13)と祈らせてくださった。聖ペトロは勧めている。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの反対者、悪魔が、吠えたけるライオンのように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰を堅く守って、悪魔に抵抗しなさい」(1ペトロ5,8-9)。
そして、祈る者には誘惑に打ち勝つ力が与えられる。聖パウロは言う。「自分は大丈夫だとおもうひとは、倒れないように気をつけるがいい。あなたがたを襲った試練は、何一つとして人間に耐えられないようなものではありませんでした。神は信頼に値するかたです。耐えられないような試練にあなたがたを遭わせるようなことはなさらず、むしろ、耐えることができるように、試練とともに抜け出る道をも用意してくださるのです」(1コリント12-13)。