8月15日の三つの思い出
カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/08/10/ 00:00]
8月15日はわが人生にとってはいくつもの思い出が詰った日である。子どものころは「聖母被昇天の祝日」、若いころには「大平戦争敗戦の日」、そして鹿児島に赴任してからは「ザビエルの鹿児島上陸の日」で、いずれも忘れ難い。
子供のころの8月15日の思い出は「聖母被昇天の大祝日」であるが、祝日そのものについてはあまりはっきりした記憶はない。当時、日本のカトリック教会には年間六つの「守るべき祝日」があって、わが故郷の紐差教会では、信者たちは大祝日の直前に「ゆるしの秘跡」(当時、人々は「告解」と言っていた)を受けて魂を清め、当日は労働を休み、ミサに参加するという義務が忠実に守られていたから、子供にとっても夏休み中の最大の行事であったはずであるが、カトリック信者にとってはあまりにも当然の年間行事であったので、特別な思い出がないのかもしれない。
それほどに教会の公的礼拝である典礼は信者生活の中心であり、典礼上の祝日の霊的喜びは信者の食卓にも喜びをもたらしていた。わが家では「かから団子」を作って聖母の被昇天を祝ったのである。かからの葉で包んだあんこ入りの米団子で、被昇天祭の思い出でもある。
若いころの8月15日の思い出は「太平洋戦争敗戦の日」である。満17歳だったわたしには、それは鮮烈な思い出である。その一週間前の8月9日の原爆投下は大浦天主堂隣りの神学校で迎えた。校舎が爆風にやられて住めなくなったので、裏の土手に掘られた防空壕の中で過ごすことになったのだが、学徒動員先の浦上で原爆の熱で真っ黒焦げになって帰ってきた一級下の3人の神学生の面倒も防空壕で見ることになった。そのうち1人は10日に亡くなり、父親に引き取られていった。残りの2人は13日の夜と14日の朝に亡くなり、裏山に墓を掘って埋葬した。そして、中学校をすでに終えていたわたしたち数人の神学生は、14日午後、わずかな身の回り品を大八車に積んで、長崎郊外の山腹にあるキリシタン集落・大山の女子修道院に避難し、そこで終戦の日を迎えた。
8月15日は、大山教会で聖母被昇天の祝日のミサにあずかり、修道女たちの心づくしのお祝いの膳を囲んだわたしたちには、久しぶりに穏やかで静かな午後を過ごしていた。ところが、用事で長崎の町に出かけた仲間がビッグニュースを持って帰ってきた。「今日の昼、戦争終結を告げる「玉音放送」があって戦争が終わり、負けを認めない兵隊たちが大騒ぎをしている」と告げたのである。大した落胆もなければ大げさな解放感もなく、「そうか、戦争は終わったか」という感じで、ほっとしたのが第一印象である。
そしてその日から、戦後の混乱と苦難が始まるのであるが、延々と続いた15年戦争は何だったのかを考え、平和の尊さ、ありがたさをじっくりと実感するのは、ずっと後になってからである。何よりも、キリシタン禁制の高札は撤去されたにもかかわらず国家神道の統制下におかれていたキリスト教信仰が、完全な自由を謳歌する時代を迎えたことは、日本敗戦がもたらした最大の喜びとなるのである。
1970年、鹿児島に赴任したわたしの8月15日は、先の二つに加えて、「ザビエル鹿児島上陸の日」という、三つ目の思い出が重なることになる。キリスト教信仰を初めて公式に告げるため来日した宣教師聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸は、6世紀の仏教伝来に匹敵する、あるいはそれを超える歴史的大事件である。そのザビエルを保護者とする鹿児島教区の司教として、日本の国民と全国の教会に代わり、教区をあげてこの日を記念することは、わたしの使命であり責任であることを自覚するのにあまり時間はかからなかった。
この思いを、鹿児島教区民の同意を得て実現にこぎつけたのは、ザビエル渡来425年に当たる1974年(昭和49年)8月25日のことであった。これは、教区行事としての第一回「ザビエル祭」であり、鹿児島カテドラル・ザビエル教会の中庭を会場としてミサがささげられた。翌1975年には会場をザビエル上陸地点に近い祇園の洲公園に移して野外ミサを行うようになり、新祇園の洲埋立地に「ザビエル上陸記念碑」を建立した1987年からは、この記念碑前でザビエル祭がおこなわれるようになった。わたしの鹿児島司教在任中は一回を除いて毎年新祇園の洲での野外ミサを実施してきたのであるが、それは、ザビエル渡来を日本宣教の原点として特別の意識を持って記念すると同時に、「日本人とキリスト教の邂逅」について考えるよう市民にアピールするためであった。
今年ももうすぐ思い出の8月15日がやってくる。その日には、あらためて三重の思い出を胸に、聖母被昇天を祝いつつ、その取次によって日本宣教の発展と世界平和を祈りながらミサをささげたいと思う。