新しい合本聖書の出版を祝して

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 新しい合本聖書の出版を祝して

新しい合本聖書の出版を祝して

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/09/10/ 00:00]

聖書さる8月15日、フランシスコ会聖書研究所訳注の新しい合本聖書がサン・パウロから出版された。長いあいだ待たれた原文校訂による註解付き口語訳カトリック聖書である。

フランシスコ会聖書研究所は、「聖書研究所を設立し、原文校訂による口語訳聖書を翻訳するように」との当時の駐日教皇庁公使M・デ・フルステンベルグ大司教の要請により、今から55年前の1956年(昭和31年)に設立された。このことは、1955年の全国教区長会議(現日本カトリック司教協議会)の賛同を得ている。

原文からの批判的口語訳の第一書として『創世記』が出版されたのが1958年。以後、分冊による旧・新約聖書全体の出版が完了したのが2002年であった。その後、当初からの計画通り、旧・新約聖書を一巻にまとめた合本聖書の出版に向け、労力と根気のいる作業に取り掛かり、ついに今年2011年にその記念すべき出版にこぎつけたのである。フランシスコ会聖書研究所と協力された皆さんのご苦労をしのび、心からお祝い申し上げる。

今回出版された聖書の特徴は、カトリック新聞掲載の広告によると、次の六点である、すなわち、旧約・新約の全編を網羅、独自の原典批判(本文批判)、合本のための表記統一、小見出し目次、聖書の理解を助ける注釈(注の見直し。簡略化)、そして地図とイラストを適宜収録、である。

ここで注目したいのは、注釈つきの聖書であることである。第2バチカン公会議の言葉を想起したい。「教会の信者たちが、安全かつ効果的に聖書に親しみ、その精神をくみとれるよう、必要かつじゅうぶんの注釈付きの聖書の訳によって、聖書、特に新約、その中でも福音の正しい使用を教えるのは、『使徒的教えの受託者』たる司教たちの務めである」(啓示憲章25)。ちなみに、日本司教団が今回の合本聖書発行の企画に初めから賛同し、その出版を特別の関心を持って待ち望んできたことは言うまでもない。

今回の注釈付き聖書の出版によって、遠い過去に種々な文学類型によって書かれた聖書を、書かれたときの事情に即して読むための参考になると同時に、何よりもカトリック教会の視点に立って聖書を読むための貴重な助けとなる。「聖書のテキストは、カトリックの信仰をもって(聖アウグスチヌスが言うようにin fide catholica)読むときにはじめて完全な意味を持つ」(レオ・エルダース)からである。このことに関連する現教皇ベネディクト16世の言葉を紹介しよう。これは、2005年の『啓示憲章』発布四十周年記念国際会議参加者へのメッセージの一節で、『霊的講話集2005』(カトリック中央協議会ペトロ文庫)に収録されている。

「教会は、聖書の中にキリストが生きておられることをよく知っています。それゆえにこそ、『啓示憲章』が述べているように、教会は、主のからだを敬うのと同じように、つねに聖書を敬ってきました。だから、この公会議文書が引用しているように、聖ヒエロニモは、『聖書を知らないことはキリストを知らないことである』と言ったのです」。これは、聖書全体が人となった神の子キリストを指し示していることを言っているのであり、その点で、キリスト教における聖書は、ユダヤ教やイスラムにおける聖書とは根本的に違った意味を持つ。教皇はつづけて聖書の読み方のもう一つの大切な観点を示して言われる。

「教会と神の言葉は分かちがたく結ばれています。教会は神の言葉によって生かされています。また神の言葉は、教会によって、教会を通して、また教会生活全体の中に響きわたります。それゆえ使徒ペトロは、聖書に述べられたいかなる預言も、個人の解釈にゆだねてはならないといういましめをわたしたちに与えています。『聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は決して人間の意思に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです』(2ペトロ1,20)」。

ここで言われているのは、教会が示す信仰・道徳の教えに沿って(in fide catholica)読む、ということであって、人が自由に聖書を読むことを禁じているのではない。人は誰でも、自由に聖書をひも解き、神の言葉をじっくり味わい、霊的な糧を豊かに得ることができるのである。そこで教皇は勧めている。

「私は何よりも『霊的読書』(lectio divina/レクチオ:ディヴィ-ナ)という古代の伝統を思い起こし、また勧めたいと思います。祈りとともに聖書を読むことにより、内的な対話が生まれます。この対話の中で、聖書を読む人は神が語る言葉を聞きます。また、その人は、祈りのうちに、開かれた信頼の心をもって神にこたえます」。

この翻訳書ではlectio divinaを「霊的読書」と訳しているが、少々あいまいな訳で、直訳すれば「神的読書」、意訳すれば「神の言葉として聖書を読み、これに答えて祈ること」を意味する特別な教会用語である。人が書いた霊的な本(信心書など)を読むのとはわけが違う。教皇が言われるとおり、これはまさに聖書を通しての神との対話である。