日本宣教の原点を考える

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日本宣教の原点を考える

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/09/25/ 00:00]

會見の碑

會見の碑

9月になると、わたしは決まって聖フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が薩摩の領主・島津貴久(1514-1571)の許可を得てわが国における宣教を公式に開始したことを思い出す。そこには、宣教地の文化伝統を重んじ、土地の権威に対して礼を尽くすザビエルの姿勢が見られると同時に、福音宣教が悪魔との霊的な戦いであることを想起させる。

鹿児島に到着して一カ月ほどを過ごしたザビエルは、1549年9月29日、大天使聖ミカエルの祝日を期して、伊集院の一宇治城に貴久を訪ねて挨拶し、鹿児島における宣教活動の許可を得たのである。そのあたりの事情を、『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』(平凡社)の中で、著者・河野純徳神父は次のように伝えている。

まず、日本人最初のキリスト信者であり、ザビエルを鹿児島に案内したアンジロウ(ヤジロウともいわれる)の引見について。

――当時、領主は鹿児島から5レグア(28㌔)離れた伊集院の一宇治城にいたが、早速アンジロウを引見して大いに喜び厚く礼遇し、ポルトガル人の生活様式や気品の高いことなどについて尋ねた。アンジロウはすべての質問にくわしく返答したので、領主はたいへん満足した。そしてアンジロウが持参した敬虔な聖母の御絵を見て感激し、御絵の前にひざまずき、深い敬意と尊敬をもって聖画を拝したうえ、居合わせたすべての人に同じように拝むことを命じた。その後領主の母堂にも見せたところ、いたく感激し、たいへん喜んだ。数日後、母堂は鹿児島に家臣を遣わして、この聖画と同じものを作るにはどうしたらよいかと尋ねさせるほどであった。結局、鹿児島には材料がないので作ることを断念したが、キリスト教の教理を書いてほしいと頼まれ、アンジロウはいく日もかかって聖なる信仰についていろいろなことを日本語で書き、領主の母堂に献じた(ザビエル書簡90)―。

次いで、ザビエルと領主との会見の模様を伝える。

 ――ザビエルは故郷ナバラの伝統で、大天使聖ミカエルを厚く信心していた。生まれ育った城の中央にそびえるミカエルの塔、長兄もまたミカエル(ミゲル)とよばれていた。その大天使の祝日を待ちつつ鹿児島で一ヵ月を過ごした。天軍の総帥、大天使聖ミカエルの保護のもとに薩摩の地に聖戦を展開すべく、その祝日9月29日を期して伊集院を訪れた。領主は丁重にもてなし、教理が書かれている本を大切にするようにザビエルに言い、キリストの教えが真理であり、良いものであれば悪魔はたいへん苦しむことになるだろうと言った。そして数日後、キリスト信者になりたい者は信者になってよい、と臣下たちに許可を与えた。領主の宣教許可を得たザビエルは大きな感激をもってゴアの会員たちに、「あなたがたに心から喜んでいただき、主なる神に感謝をささげていただきたい」(ザビエル書簡90)と書き送った―。

このように見てくると、ザビエルの日本宣教は順調に開始された。そして、鹿児島の町民もザビエル一行を喜んで迎え、アンジロウの親戚をはじめ、多くの日本人が洗礼を受けてキリスト信者になった。ザビエルは書簡の中で、「彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。とくにそれを理解した時にはたいへんな喜びようです」(書簡90)と書き、「主なる神のお望みによって、彼らは真理の教えを認めるようになり、私たちが鹿児島に滞在中におよそ100人が信者になりました。もしも僧侶たちが妨げなかったなら、その地のほとんどが信者になったに違いありません」(書簡96)と書いている。

実際、キリスト信者が100人に達したあたりから、僧侶たちの反対が激しくなり洗礼を受ける者がいなくなる。ザビエルは書いている。「ボンズたちはキリスト信者になった者は、誰であっても死罪に処すと領主が命ずるように策謀して成功し、それで領主は誰も信者になってはならないと命じました。…日本人はたいへん立派な才能があり、理性に従う人たちなので、これこそ真理であると思い、信者も信者でない人もキリストの奥義を喜んで聞きました。彼らが信者にならなかったのは、領主の命令に反することを恐れたからで、神の教えが真理であり、自分たちの宗教が過ちであることを理解しなかったためではありません」(書簡96)。

聖フランシスコ・ザビエルの言う通りだとすれば、わが国における宣教の将来には希望がある。ただし、そのためには二つの条件があろう。一つはキリスト教の真理を確信をもって適切に伝えることであり、もう一つは、悪魔との戦いに霊的な武器を取って備えることである。

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(註)上に掲げた「会見の碑」は、1949年、「ザビエル渡来400年祭」の折にザビエルと貴久の会見の地、伊集院の一宇治城あとに建てられたもので、碑の正面には「聖師ザビエル 太守島津貴久 会見の碑」と刻まれている。