“信仰は与えるとき強められる”
カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/02/15/ 00:00]
今年は「奉献生活の年」とされているので、わたしはあらためて奉献生活の意義を考えようと、19年前の1996年3月25日に教皇ヨハネ・パウロ2世が発表した使徒的勧告『奉献生活』を読み直しているとき、次の言葉に気をひかれた。
「“信仰は与えるときに強められる”とすれば、宣教は奉献生活を強めて新しい喜びと新しい活力をこれに与え、その忠実を促すということを、すべての会員に想起させるのは大切なことです。宣教活動の方も、多様な形態の奉献生活に広い活躍の場を提供しているのです」(使徒的勧告『奉献生活』78)。
奉献生活を送る人々に「福音宣教」の実践を勧告するこの言葉、すなわち「信仰は与えるときに強められる」(fides corroboratur eam donando)という表現は、1990年12月7日、同教皇が第2バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』発布25周年を記念して公布された回勅『救い主の使命』からの引用で、そこでは次のように書いておられる。
「宣教活動は教会を刷新し、キリスト者の信仰と自覚を活性化し、新鮮な意気込みと新しい刺激を与えるからです。信仰は他者に伝えられるときに強められます」(教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『救い主の使命』n.2)。
そして、こう述べるすぐ前で教皇は言われる。「第2バチカン公会議の閉会と『教会の宣教活動に関する教令』の発布から25年、教皇パウロ6世による使徒的勧告『福音宣教』から15年、そしてわたしの先任者たちの教えを継続するうえで、わたしは教会が再び宣教への積極的な参加を始めることを願っています」と。その年から25年が経過した今年は、第2バチカン公会議の閉幕50年に当たる。
今年はまた、いわゆる昭和戦争の終結から70周年であり、日本におけるキリスト教教会が法的に完全な信教の自由を獲得した70周年でもあって、わたしは先日からわが国における信教の自由のあり方についてもいろいろと考えてきたので、今まさにわが国における福音宣教について考える絶好の機会であり、「信仰は与えるとき強められる」という言葉にことさら注目したいのである。
そこで問いたい。今日の日本の教会は福音宣教に積極的に取り組んでいるだろうか。確かに福音宣教という言葉はあふれているが、少なくともわたしの見るところ、宣教が活性化している気配は余り見えない。それどころか、経済至上主義と世俗主義の誘惑の中で、日本人の信仰は息絶え絶えに痛めつけられ、宣教活動は停滞しているように見える。
ザビエル様一行によって日本の宣教が始まったとき、日本語をはじめ気候風土のどれをとってもヨーロッパとは異なる条件の中で宣教師たちは頑張ったし、日本人もまた熱狂してキリスト教を受け入れた。1614年の家康による徹底したキリシタン禁制のもとでは、殉教か地下に潜るかで苦しんだが、明治になって一旦信仰の自由を得てからは、パリ外国宣教会をはじめ各修道会の活躍によって潜伏キリシタンの復活をはじめ、ミッションスクールや福祉事業を展開して日本の教会を建て直した。戦後もまた、多くの外国人宣教師や修道者を迎えて、日本の教会は飛躍的な発展を遂げた。しかし、日本が世界第2位の経済大国になった頃から、日本の教会は停滞から衰退の時代に入ったような気がする。日本の教会は、いつ目覚めて動き始めるのか。日本人信者の信仰を強め、その活性化のために、宣教の活性化が必要なのである。
歴代教皇に倣って、現教皇フランシスコも、積極的な福音宣教を勧告してやまない。そして、福音を恥とせず、むしろ「喜び」として、また「福音の喜び」を「宣教の喜び」として、福音宣教に「出かけるように」と次のように諭しておられる。
「神のことばには、神が信じる者たちに呼び起こそうとしている「行け」という原動力が常に現れています。アブラハムは新しい土地へと出ていくようにという呼びかけを受け入れました。モーセも「行きなさい、わたしはあなたを遣わす」という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。神はエレミアに言います。「わたしがあなたを、誰のところに遣わそうとも、行け」。今日、イエスの命じる「行きなさい」ということばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場と挑戦を示しています。皆が、宣教のこの新しい「出発」に招かれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めている道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけにこたえるよう招かれています。つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう招かれているのです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』20)。