長崎の「信徒発見」物語
カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/02/01/ 00:00]
今年、すなわち2015年は、長崎の“信徒発見”から150年を数える。その日、3月17日には、長崎で盛大な記念行事が行われる。わたしは長崎キリシタンの血をひく末裔として、“キリシタンの復活”とも呼ばれるこの出来事を簡単にたどって見たい。
わたしは歴史家ではないので、浦上キリシタンの末裔でキリシタン史家でもある故片岡弥吉教授の著書、『長崎のキリシタン―信者発見物語』を紐解くことにした。この書は、信徒発見100周年の前年、つまり1964年10月に、長崎大司教区―信者発見百周年行事委員会によって発行された。
キリスト教(カトリック)が日本に伝えられたのは、周知のとおり、1549年、聖フランシスコ・ザビエル一行8人によってであった。以来、多くの宣教師や修道士によって宣教・司牧活動が進められ、1601年以降には日本人司祭も加わって教勢は伸び、全国に教会が建てられたが、1587年、秀吉の宣教師追放令によって迫害がはじまり、1597年には長崎で26人が処刑され、殉教した。しかし、キリシタン迫害が本格的に始まったのは1614年、家康のキリシタン禁令からであった。この年、日本にいた司祭(神父)は外国人、邦人を合わせては89名いたが、51人が国外に逃れ、38名はひそかに日本に隠れて信者の指導に当たった。国外の逃れた司祭達の一部はひそかに潜入してキリシタンの世話に当たった。長崎の信者は当時五万人を数えた。そして、日本に神父(司祭)が一人もいなくなったのは1643年、マンショ小西神父とマルチノ式見神父が殉教してからである。
それから七代、250年間にわたって、日本の教会は一人の司祭もなしに信仰を守ることになるが、司祭の役割は教会のいのちにとっては不可欠の存在である。神父がいなくなることを予見した宣教師たちは、烈しい迫害に堪えうる潜伏キリシタンの地下組織を作ると同時に、「迫害で神父が殺されてしまっても何時かは必ず、神父がやってくるということ、やがて迫害も終わるということ、告白の秘跡の大切なことを神父たちがくれぐれも信者たちに教育していた」と著者片岡氏は述べ、さらに、「潜伏キリシタンたちはキリストさまの代理者として教会を司牧なさるローマのお頭さま(パーパ=教皇)を慕う心は250年の迫害と潜伏の間も変わることはなかった」と書いている。いつのころからか、江戸時代のキリシタンたちは歌っていたという。
沖に見えるはパーパの舟よ
丸にやの字の帆が見える
キリシタンたちがローマ教皇を忘れなかったように、母なる教会も孤児となった日本の教会を忘れなかった。1831年、ペリー来航の年に、教皇庁の布教聖省(現在は福音宣教省)は日本宣教再開を決め、東アジアを担当する「パリ外国宣教会」(1653年創立)にその任務を要請する。そして1858年、米英蘭露仏との修好通商条約が結ばれたが、その条件に「外国人居留地に教会建立を許可する」という一項があり、1860年に函館、1862年に横浜にパリ外国宣教会の司祭によって教会が建てられた。同年6月8日、日本26聖殉教者の列聖式がピオ9世教皇によりローマで行われた。
長崎では、大浦天主堂の献堂式が1865年2月19日に盛大に行われたが、キリシタン禁制下、日本人の参加は許されなかった。ところが、献堂式が終わるや否や、「フランス寺にサンタ・マリアがいらっしゃる」という噂が、長崎とその近辺のキリシタンの間に燎原の火のように広がっていった。そしてひと月後の3月17日、ついに潜伏キリシタンと宣教師との劇的な再会の時がやってくる。
この金曜日の昼下り、天主堂見物にやってきた14,5人の浦上キリシタンの一団の一人が、一行を案内した主任司祭プチジャン神父に、「ここにおりますわたしたちは、みな、貴師(あなた)さまと同じ心でございます」と囁いた。そしてすぐに、「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ね、神父がご像の前に案内すると、「「ほんとにサンタ・マリア様だよ、ごらん、御子ゼズスさまを抱いておいでだ」と言った。プチジャン神父は狂喜した。が、7代250年の間神父を待ち続けたキリシタン達の喜びはこれに勝るものであったろう。
キリシタン禁制がまだ続いていたのに(キリシタン禁制が解かれるのは1873明治6年)、これを機に、長崎や地方のキリシタン達が次々と名乗り出たのであるが、彼らは、神父を見分ける三つの条件、すなわち①サンタ・マリアを尊敬する、②ローマ教皇に従う、③一生独身を守る、を知っており、それとなく、この条件を確かめていたという。ザビエル以来の日本宣教が16世紀の宗教革命の直後に始まったことと関係があるのだろうか。ちなみに、カトリックのポルトガルに代わって日本との通商を長崎で独占していたのはプロテスタントのオランダであった。
この短い記事で「信徒発見物語」の詳細を語ることはできないが、カトリック信徒たちと神父たちとの別れと出会いの物語として追憶すれば、一段とその意味するところが分かるではないか。この記念の年に、あらためて教会における「司祭の存在の重要性」を考え、司祭を支える教会全体の責任を痛感する。