『カトリック時評』を始めるに当たって

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 『カトリック時評』を始めるに当たって

『カトリック時評』を始めるに当たって

カテゴリー カトリック時評 公開 [2006/11/01/ 00:00]

カトリック時評を始めるにあたり、このサイトの趣旨を簡単に述べる。

さる1月、長年勤めてきた鹿児島教区司教(教区長)の職を後任に譲り、わたしは今、自由の身となった。考えてみると、これで職務として語る立場はなくなったが、しかし、個人的にはもっと自由な立場でキリストのよい便りを語ることができる。だから、これからも力の続く限り福音宣教の使命を継続するため、このホームページを開くこととした。

カトリック時評とのその狙い

この試みにはいくつかの方法が考えられるが、当面、世の中の折々の問題や現象を取り上げ、これをカトリックの立場、特にその社会教説の視点から論評して、物事の真の意味を考えていこうと思う。そしてこれを、少し大げさだが『カトリック時評』と名づけ、月に2回程度、順次更新していきたい。また、このページを見てくださる方々の批判や教示、疑問や質問をいただいて対話の機会にすることができればと願っている。

野蛮化する現代社会

それにしても、今の時代は豊かでありながら何か殺伐としている。戦争やテロ、民族浄化や粛清など、大量虐殺に明け暮れた20世紀を『野蛮の世紀』(原書名はL’ENSAUVAGEMENT)と呼んで一冊の本を書いた人がいるが、今世紀になってもどうやら野蛮化現象は世界各地で止むことを知らず、わが国においても、生命操作や中絶、いじめや虐待、家庭内暴力や尊属殺人、自殺や殺人など、いのちや人権を脅かしかつ損なう事件や風潮が連日報道さていれる。これら報道される事件を氷山の一角だと見れば、この半世紀あまり、戦争こそなかったが、景気々々といって経済的豊かさを追い求めている間に、野蛮化の流れも密かに進行していたことを示す証左なのかも知れない。

野蛮化の真因は

高度に発達した物質文明の中で精神的には野蛮化していく現代社会。この矛盾の原因は何なのか。原罪に傷ついた人間性に内在する矛盾が顕在化したに過ぎないといえばそれまでだが、真の原因の特定は難しい。ただわたしは、諸悪の根源は近代合理主義が生んだ「世俗主義」と「個人主義」にあるのではないかとひそかに考えている。世俗主義とは、神を無視または敬遠して理性の自立を主張する一方、経済を中心とした現世的な豊かさや効率を追求する風潮を意味する。そして個人主義とは、自己を過信して他者との相互依存を排除し、自己決定権の行使であればなんでも許されるとする独りよがりの生き方である。神を恐れず、他人のことも気にしないこの世俗主義や個人主義は、人間や世界本来の尊厳や価値を見えなくするばかりか、いたずらに現世的な野心をあおり、終には真理に心を閉ざしてかえって不自由になり、孤独地獄の中に自らを追い込んで、社会の不安や混乱を助長する恐れがある。

闇の中に輝く光

こんな世の中でも、人類の未来に、そしてわたしの未来に希望はあるのだろうか。新約聖書のヨハネ福音書は冒頭で宣言している。

「光は闇の中で輝いている」。続けて言う、「闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ1,5)。

おそらく、この光は肉眼には見えない。わたしはこのカトリック時評を通して、心眼、すなわち理性と信仰の二つの目で、皆さんとともに、希望をもって光を探して行きたいと思う。

【次回は「教育基本法改正問題」について】