鹿大病院のクリスマス

鹿大病院のクリスマス

カテゴリー カトリック時評 公開 [2006/12/15/ 00:00]

――日本の年中行事に定着したその意味は――

今年もまたクリスマスがやって来る。母の袂に包まって教会に急いだ小さいころのクリスマス、灯火管制下の薄暗がりで祝った太平洋戦争勃発の年のクリスマス、さまざまな国からの学友たちと徹夜したモントリオールのクリスマス、そして長崎や鹿児島で祝ったクリスマスの数々を今想起しているが、昨年のクリスマスはまた格別の体験だった。

日本の年中行事となったクリスマス

昨年のクリスマスは鹿児島大学病院で迎えた。思いもかけない顔面神経麻痺で緊急入院したのは12月12日。その日、ナースステイション前にはクリスマスツリーが早くも点滅していた。ここは公立の病院ではないかと一瞬わが目を疑ったが、それは紛れもない事実。そして16日の夕方には、鹿大看護学部専攻科の学生たちが病室を廻ってクリスマスカードを配り、クリスマスキャロルに招待してくれた。20日の夕べには病棟のドクターやナースたち主催のクリスマスの集いが開かれ、ささやかながらプレゼントまでいただいた。

クリスチャンはほとんどいないと思われる鹿児島の公立病院で祝われたクリスマスは、それが広く日本人の間に、おそらく年中行事に定着していることをあらためて感じさせた。同時に、点したローソクを手にして「きよしこの夜」を皆で歌ったとき、教会にいるような敬虔な気持ちと暖かい優しさが部屋中に広がっていたところを見ると、日本人の思いの奥には、もしかして「究極の実在」への信仰が息づいているのでないかとも思われた。だからこそ、違和感なしにクリスマスをお祝いできるのではないかと。

人類の新しい紀元

周知のとおり、クリスマスはキリストの降誕祭であり、神の御子が天の玉座を捨て、人となってこの世においでになったことを記念する世界的な祝祭である。あの瞬間、いわば閉ざされていた天が開かれて地とつながり、二つは一つに結ばれた。この日を境に人類の歴史は大きく前と後に分かたれ、新しい人類の紀元が始まった。

ある経典に出てくる話を童話風に書き改めたといわれる芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では、仏様がはるか下方の地獄で苦しんでいるカンダタに目を留め、生前彼が一つの善いことをしたのを思い出して、蜘蛛の糸を垂らして救おうとされるのだが、キリスト教では神ご自身が地に降りて来られ、救いに値する善いことを何もしなかった罪深い人間を、無償でどん底から救い上げて天の高みへ伴われるのである。この偉大な「愛の神秘」を誰が信じ得よう。

恵みはへりくだる者に

聖書は言う、「神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになる」(1ペトロ5,5;ヤコブ4,6)。自ら高ぶる者は愛の神秘が理解できない。聖書はまた言う、「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」(マタイ18,3)。救い主を素直に信じて受け入れる者だけが神の愛の神秘にあずかるということだ。お生まれになった幼子イエスに最初にお目にかかったのは、野宿して羊を飼う貧しいホームレスたちであった(ルカ2,8以下)。あの夜、天使たちは歌った。「天においては神に栄光、地においては善意の人に平和」(ルカ2,14)。

善意の人とは誰か。それはへりくだる人々であるに違いない。わたしは天使たちの歌声に合わせて祈る。「すべて善意の人々にキリストの平和がありますように!」。