愛国心の問題について

愛国心の問題について

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/03/01/ 00:00]

――祖国愛は人間の社会的本質に基づく当然の務め――

教育基本法改正に関連して、愛国心の問題が注目を集めた。では、愛国心とは何か。世間にはさまざまな意見がある。だが、「忠君愛国」のイメージを払拭できないまま、見当違いの愛国論が多かったように思う。そこでこの際、もっと本質的かつ客観的立場から愛国ないし祖国愛の問題を整理しておかなければならない。

ここにいう国とは

愛国の「国」は、単なる郷土でもなければ歴史や文化でもなく、国家の意味で使用しなければならない。「国家は三つの要素、すなわち、国民社会、領土、国家権力よって構成される」(『社会綱領』有信堂1959)。国家は一つの共同体である。だから、カトリック教会は国家のことを「政治共同体」(現代世界憲章76)と呼んでいるが、この概念は重要である。

日本という国は、長い歴史と固有の文化を持つ良い国であり、日本人のアイデンティティであり、誇りである。しかし、この歴史と文化は光と影の両面を持っている。人間の歴史である以上、常に完全であったとは言えないのである。従って、過去を反省し、経験を生かしてさらによい国を子孫に継承しなければならない。

ここにいう愛とは

愛という概念は日本ではしばしばあいまいである。ただ、最近では、己を無にして純粋に人のために尽くすという、キリスト教的な愛の概念が一般化しつつあるといってよいであろう。その良い例として、愛とは「損得ぬきで相手につくそうとする気持ち」とした三省堂国語辞典(第四版)の定義は注目に値する。「気持ち」が「行為」になればもっと良い。

国家と国民との関係

人間は本質的に社会的存在であって、独りでは生きていけない。家庭もまた、たとえ大家族であっても、自分たちだけでその安全と需要を満たすことができない。そこで、歴史の必然としてさまざまに国家が形成されてきたのである。こうして、個人も家庭も国家の庇護と恩恵を受けて自己を実現し、国家もまた国民の応分の貢献によってその使命を果たす。

また、共同体の目的はメンバー各人であって、共同体自体ではない。共同体はあくまで手段である。人間はそれ自体が目的であって、いかなるものの手段ともなり得ないからである。個人が目的であるといっても、共同体としての国は個人主義社会ではなく、「人格的社会」と呼ばれる。国民はばらばらの個ではなく、交わりの中の人格(ペルソナ)だからである。

国を愛するとは

まず、国を愛することはもともとナショナリズムではない。ナショナリズムは一種の国家エゴであって、国益の名の下にナショナリズムを追求することのないよう警戒すべきである。真に国を愛するとは、好き嫌いの問題ではなく、それぞれの分に応じて、祖国の健全な発展のために尽くすことである。これは人間の社会的本質に基づく国民の義務であって、教育において愛国心を培うことは当然である。国を愛することは結局自分を愛することに通じる。

どのように国を愛するか

国を愛することの第一は健全な家庭を守り育てることであろう。家庭は社会の生きた細胞であり、健全な国民を産み育てて送り出す源泉だからである。細胞がガンに冒されれば、体はやがて死滅する。家庭が健全で生き生きとその使命を果たすとき、国は栄える。

その他の愛国のあり方については、ここに詳しく述べる余裕がない。ただ、それは国の使命である「共通善」の維持発展に資する一切のことであるとだけ申し上げておこう。



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