人間の偉大さと惨めさ

人間の偉大さと惨めさ

カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/01/01/ 00:00]

様々な思い出を残して2007年は過ぎ去る。思えばこの一年、これほど人間の浅はかさが浮き彫りになった年はなかったような気がする。老舗にまで及ぶ数々の食品偽装の広がり、政治や行政の怠慢や汚職に発する様々な国民的被害、中でも親殺しや子供殺しなど多発する尊属殺人事件は深刻な事態である。果たしてこれが人間の本性なのか。

聖書によれば、神は人間を「神の似姿」として創造された(創世記1,27参照)。換言すればそれは人間をペルソナ(人格)、すなわち、知恵と自由を備えた独立主体として造られたことを意味する。自由は人間の本質的特徴であり、その偉大さの根源である。その意味で、第2バチカン公会議が言うように、人間は「神が―それ自体のために望んだ―地上における唯一の被造物である」(現代世界憲章24)。人間はそれ自体が目的であって、他に従属する手段とはなりえない尊厳を備えている。

自由である人間についてのこのような聖書や教会の教えは、神を認めるか否かに関係なく、多くの現代人に共通した認識である。しかし、人間が自由であること自体の中に落とし穴がある。人間の自由は神に「ノー」と言うこともできるからである。事実、聖書は、神の似姿として造られた人間の偉大さと尊厳を教えると同時に、自由を乱用する人間の惨めさを様々に描き出している。その発端はアダムの罪(原罪)である。彼は「偽りの父」(ヨハネ8,44)である悪魔の甘い誘惑に負けて禁断の木の実を食べた。もちろん象徴的な表現だが、宗教的真実を示している。人間は自由だからそれを乱用して罪を犯す。それでも神は人間に自由を与えた。自由なしに人間は神の愛のパートナーになり得ないからである。人間の罪とキリストによる救いとは創造の初めから神の想定内にあった。

ここで指摘しておきたいことがある。『文芸春秋』の新年特別号で石原慎太郎氏は臆面もなく一神教を批判して言う。「イスラムのテロリストは市民を平気で巻き添えにしながら、聖戦に殉じたということで天国に行くことができる。そんなことを宗教が保障しているわけです。こういうことをやらせるのはみな一神教です。キリスト教にしろ、いまだに宗教の違いだけで殺し合いをしている」(松原泰道師との対談)。大変な誤解と言うより、大変な無知としか言いようがない。一切の罪悪は人間から来るものであって、神から来ることはあり得ない。人間は宗教の如何を問わず罪を犯す。わが国においても例外ではない。それに、宗教の真価は、その信奉者が罪を犯すか否かではなく、悔い改める罪びとを真にゆるして救う力を有するか否かにかかっている。

自由の履き違えを正すには「自由には責任が伴う」ことの認識が必要である。人間は自由な独立主体であり、自分自身が目的ではあるが、その存在は絶対ではなく、あくまで造られ、生かされた存在である以上、創造主に依存し、隣人と社会に依存し、自然環境に依存して生きなければならない。従って、そこに他者への責任が生じ、この関係性において自己の行動を統御しなければならない。自由には自ずから制限がある。

では、責任はどのように取るべきか。まず強調しなければならないのは、自己の行為に対して自分で責任を取るのは当然だが、私が取るべき責任は私に対してではなく他者に対してであるということである。上に述べたように、責任は他者との関係性の中で生じるからである。このことの分かりやすい説明として、責任の英語「responsibility」について聞いたことがある。この英語は、response (応答) とability(能力)の組み合わせで、従って、責任とは他者の呼びかけに対する応答能力であると解される。そしてその他者とは、誰よりも人間存在の根源である神であって、人間に召命を与え、使命を与えた神に対して、人間はその自由をもってこれに応えなければならない。

では、神の招き、神からの使命をどうして知ることができるか。結論から言えば、それは各人が持つ「良心の声」であると言うことができる。個人の意識としての良心の声は「神からの心の声」であって、その声は自由を正しく行使するためのいわば直接の、そして最終の基準となる。この良心の声(命令)に違反した場合は、たとえ人は見ていなくても、人の心の底までも見通しておられる神の前に、その責めを負わなければならない。

そこで、聖書の次の言葉は意味深長である。「神を畏れることは知恵の初め」(箴言1,7)。「神の畏れは罪を排除する」(シラ書1,27=ヴルガタ訳)。「幸せな人、神を畏れ、主の道を歩む人」(詩篇128,1)。