クリスマスの贈り物
カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/12/15/ 00:00]
サンタクロースやクリスマスのプレゼントは、非キリスト教国日本でも習俗としてすでに定着した感があるが、果たしてその本来の意味は生きているのだろうか。
さる11月4日、毎日新聞の「今週の本棚」にショッキングな一冊の本が紹介された。岩村暢子著『普通の家族がいちばん怖い』である。「いま家族に何が起きているのか」、「家族の求心性がもっとも高まると考えられる二大イベント、クリスマスと正月に焦点を当てて、ごく普通の家族の実態を詳細に見つめた」調査報告である。
本書のプロローグによれば、中学生や高校生になってもサンタクロースからプレゼントをもらう子供たちが急増している。99年の調査では2,6%だったのが、04年には47,8%に増加した。親たちは、子供たちがいつまでもサンタクロースを信じ続けるように、様々な演出や工夫を凝らしている。それは、子供にいつまでも夢を持ち続けて欲しいからであり、サンタへの夢を介して子供を繋ぎ止めておきたいという、「私中心」の願望のためである。にもかかわらず、正月の食卓は伝統の御節もなく、家族ばらばらに勝手に食べて一つに集まることもない。著者は、このような普通の家庭の実態は「子供にとっては非常に残酷で恐ろしい」(エピローグ)と嘆いている。
家庭の危機については何度か取り上げたし、これからも折に触れて取り上げるであろうが、ここではクリスマスシーズンにちなんで、サンタのプレゼント問題に注目したい。
本来、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う降誕祭であり、プレゼントという英語は「贈り物」のことであり、贈り物は贈り主の「心のしるし」である。クリスマスの贈り物と言えば12月25日にその生誕を祝う「人となった神の子イエス・キリスト」のことに他ならない。このベトレヘムの幼子イエスは、実は父なる神が人類に贈った「贈り物」なのである。聖書は言う。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)。
従って、イエスという贈り物を人類に贈った父なる神の心とは、人類に対する「神の無償の自己贈与(愛)」であり、その目的は「人類が御子を信じて永遠のいのちにあずかること」である。聖イレネオによれば、「神の子が人となったのは、人間を神の子とするためである」と表現される。ということは、御子キリストは、神からの愛の贈り物であると同時に、十字架上で人類を神の子らとするための犠牲となり、購われた人類とともにご自分を御父に対する「献げ物」(愛の贈り物)とされたことを意味する。こうして、キリストの降誕を祝うクリスマスは、まさに神と人類との神聖な贈り物の交換を記念する祝祭となった。
従って、降誕祭の中心が教会で執り行われる「ミサ」にあることは明らかである。なぜなら、ミサにおいて、キリストの現存のしるしである「聖体の秘跡」の「奉献」と「拝領」が行われるからである。つまり、まことの神人キリスト、「神と人との間の唯一の仲介者」(1テモテ2,5)であるキリストの現存のしるし、聖体は、人類に対する御父の愛の贈り物であると同時に、人類が御父にささげる愛と感謝の贈り物でもあるからである。このミサを通して、神と人との間の愛といのちの交わりが固められ、神の家族が造られてゆく。このミサに参加するのは信仰と洗礼によって「キリストに結ばれ、聖とされた人々」(フィリピ1,1)だけである。しかし、非キリスト者も「ある意味で」このミサに結ばれている。なぜなら、第2バチカン公会議が言うように、「神の子は人となることによって、ある意味で、自らをすべての人に一致させたからである」(現代世界憲章22)。
降誕祭ミサにおける「無償の愛の贈り物」の記念はミサ以外にも延長されて、様々な人の間で様々な形で模倣されている。贈り主が誰であれ、その贈り物が、人類のために御独り子をも惜しまれなかった天の御父に倣い、「私中心」の二心ある贈り物ではなく、愛を込めた真実の「自己贈与」であって欲しいと思う。
なお、教会では特に、人の助けを必要とする「貧しい人々」への贈り物を大切にしてきた。サンタクロースのモデル、聖ニコラオ(祝日は12月6日)はその模範である。従って、クリスマスには、プレゼントを贈られるばかりでなく贈ることの喜びをぜひ子供たちに体験させる機会にしたい。人間は、利己心をいくら満足させても成熟することはなく、逆説的だが、「みずからを無私の贈り物(Sincerum Donum)としなければ、完全に自分自身を見いだすことができない」(現代世界憲章24)からである。これがクリスマスの本当の教訓である。