万能細胞と生命倫理
カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/02/01/ 00:00]
再生医療のために身体的のあらゆる部分になる可能性を持つ万能細胞(幹細胞)の開発が待たれてきた。そんな中、昨年11月、京都大学の山中伸弥教授らの研究グループが、待たれながらも期待薄であった受精卵を使わないiPS細胞(人工多能性細胞)を作ることに成功したという発表は、朗報となって世界中に大きな反響を呼び起こした。その大きな反響の主たる原因は何であろうか。
わが国においては、新たな万能細胞の開発について歓迎ムードが高まったことは言うまでもないが、多分にノーベル賞に値する科学的成功が日本人によって達成されたことが強く意識されたように思う。従来研究されてきた受精卵から作られるES細胞が生命倫理にかかわる難点があることはわが国でも意識されてはいるが、それほど大した問題とは見られていない。
それに比べ、キリスト教の影響の強い欧米諸国、特にカトリック教会においては、iPS細胞の開発は特別な喜びで歓迎された。その一番の理由は、何よりもこの万能細胞を作るのに受精卵を使用するなどの生命倫理に抵触しないことにある。雑誌『中央公論』2月号の時評2008「万能細胞をめぐる日米の温度差」によれば、ローマ法王も歓迎の談話を発表したとあるが、朝日新聞1月13日の文化面の記事(『万能細胞とバチカン・科学に問う生命の根源』によると、バチカンの生命アカデミーのスグレッチャー会長は今回の成功を「歴史的な成果」とたたえたという。一方、カトリック新聞第3934号によれば、米東部フィラデルフィアの全米カトリック生命倫理センターは「これらの発表された研究論文で概説されている方法は、私たちが以前から実現を願ってきたことと完全に一致します」との声明を発表し、また、オーストラリア司教協議会会長フィリップ・ウィルソン大司教も「非常に有望な発見であり、科学者たちは幹細胞を得るために故意にヒト受精卵を破壊することなく、難病と闘っていくことができるようになります」と語ったという。
このような世界の反応をよく理解するために、ここには特に次の三点を指摘しておきたいと思う。
1)まず、科学・技術は人間の営為である以上、倫理的な制約を受けるが、その倫理性を判断するのは科学ではないということである。技術的に可能なら何をしてもよいというわけではないという意味である。「科学や技術それ自体は、人生の意味や人間にとっての進歩の意味を示すことはできない。(中略)科学技術の目的とその限界の認識は、人間およびその倫理的価値観に照らしてこそ得られるのである」(『生命のはじまりに関する教書』)。だから、iPS細胞の発見に対する世界の多様な反応はまさにこの倫理観の相異によって生まれた。
2)次に、カトリック倫理観によれば、受精卵を使用するES細胞の開発と応用は認められないということである。それは「カトリックだから」ではなく「人間だから」であって、人類普遍の生命倫理が許さないのである。なお、わが国の論調を見れば、カトリック教会が受精卵の使用を禁じるのは、受精卵の中にはすでに人間となる生命活動が始まっており、これを破壊することは殺人に等しいからであるという。この議論はうそではないが、正確でもない。なぜなら、カトリック教会は受精卵の使用以前の、人工授精そのものに反対しているからである。人間の生殖は夫婦が行う本来の性行為を通してなされるべきものであって、夫婦行為以外の人工的手段をもって受精卵を作ること自体がゆるされないのである。受精卵の破壊や操作は殺人であるという議論は、本来は人工妊娠中絶を禁じるための議論である。
3)最後に、日本は、真の文明国になるために、生命倫理を大切にする国にならなければならないということである。生命倫理を守れない国は野蛮国である。先にあげた中央公論の時評は日本の科学界を評して言う。「もともと、バイオテクノロジーの最前線の現場では、iPS細胞とES細胞に科学的な差を見出しているとは言い難い。よほど信心深い人でないかぎり、受精卵を操作することが殺人に等しいと見なす科学者は少数派のはずである」。当の中山教授ですら、先日のNHK番組で、たしか「クローズアップ現代」だったと思うが、「いざとなればES細胞を使用することも辞さない」と述べていた。
目的は必ずしも手段を正当化しない。再生医療という正しい目的のためであっても、受精卵を操作するなど生命倫理に反する手段を正当化することはできないのである。