地球温暖化問題をめぐって

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 地球温暖化問題をめぐって

地球温暖化問題をめぐって

カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/03/01/ 00:00]

地球温暖化をめぐる環境問題が頻繁に論じられている。洞爺湖サミットが近づくにつれてこの議論はさらに高まるだろう。しかし、議論が過熱すると決まって論議が一点に集中して全体が見えなくなり、大事な点を見落とす恐れがある。 

地球温暖化をめぐる環境問題について、二つのことをまず抑えておきたい。一つは環境問題の見通しについて、去る1月6日の南日本新聞朝刊に科学史家、村上陽一郎さんの時論が載っていて、「予測困難な環境問題」、「『転ばぬ先の』の発想重要」という見出しがついていた。これは、地球温暖化について悲観的予測を語る科学者たちへの過信と過剰反応を戒めたものである。なお、「転ばぬ先」は「プリコーショナリー原理」(事前警戒原理)のことで、すでに論議は始まっているという。

もう一つは、環境問題は開発の問題と深く関わっており、その解決は経済・社会問題であるばかりでなく、倫理的、文化的問題であるということである。そのため、開発のモラルに関するヨハネ・パウロ2世の回勅『真の開発とは』(“Sollicitudo Rei Socialis”、1987)の教えに従って問題点をごく簡単に整理してみたい。

教会の社会教説の中で重要な位置を占めるこの回勅は、教皇パウロ6世の著名な回勅『諸民族の進歩』(”Populorum Progressio”,1967)の発布20年を記念したもので、その教えを引き継ぎながら、発展途上国における開発の遅れと先進工業国における過剰開発を指摘して、真の開発のための新しい指針を示している。

回勅はまず、パウロ6世の回勅『諸国民の進歩』の独創性について語り、それは、「開発とは平和のための新しい名称である」という教えであり、世界平和のために開発を進めなければならないという呼びかけであった。すなわち、「平和は正義の実り」であって、この正義は、解発の恩恵が人類全体に平等に行き渡ることによって実現する。世界の富は人類の共有財産であり、開発による財貨とサービスは全人類のためだからである。

しかし、この世界の平和、すなわち正義はまだ実現していない。ある意味で開発は進んではいるが、しかし、先進国における過剰解発(乱開発)と資源や財貨の無駄使いが見られる一方、途上国における未開発(低開発)と貧困はいまだ解消されていないからである。このような格差は不正義であり、その責任は全人類、特に富める先進諸国にある。なぜなら、「社会問題が全世界的次元を獲得した今、世界的レベルでしか正義の要求は満たされ得ないからである」(回勅10)。

さらに回勅は言う。「(貧富の格差など不正義を生むのは)利益や恩恵をむさぼり尽くそうとする欲望と、自らの意思を他人に押し付けようとする欲望に根ざす権力への渇望です」(37項)。こうした所有欲(際限なき利潤追求や消費文化など)と権力欲(一種の帝国主義や新植民地主義など)という二重の態度は「倫理的悪」の問題であり、「構造的罪」を形成している。このゆがみを正すのは政治的指導者の回心と世界レベルの「愛と連帯」によるしかないと回勅は強調する(38項以下参照)。

この回勅『真の開発とは』からすでに20年、東西冷戦の終結など世界は大きく変わったが、南北格差という構造は基本的に変わっていない。時折報道されるアフリカの国々の貧困や社会開発の遅れの惨状は目にあまるものがある。そうした中で環境問題を主たるテーマとして開催される「洞爺湖サミット」において、果たして先進国の過剰開発や浪費を抑制して途上国の開発重視に舵を切るのか、それとも、排出量の取引に見られるように、途上国の開発を犠牲にしてまで先進国中心の環境論議に終始するのか、この正義と平和の重要課題に対する先進国首脳の政治的決断が注目される。なお、真の開発に関する「政治的意思決定」の重要性については、回勅35項参照。

ついでに、もう一つ付記したいことがある。聖書は「新しい天と新しい地」の到来を約束している(2ペトロ3,13、黙示録21,1参照)。これは、キリストの再臨(マタイ24,30)と時を同じくする出来事で、聖書にその到来が語られる「神の国」(マルコ1,15)、または「天の国」(マタイ4,17)の完成を意味するが、これは、「天地が過ぎ去り」(マタイ24,35)、そのあとに来る新しい天と地において世界は究極の目的を達するというもの。この神学的な世界の展望は、地上における人類の総合的な開発・開放についても、科学を超えた新たな展望を開く可能性があるのではないだろうか。