ヒューマン・エコロジーの問題

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > ヒューマン・エコロジーの問題

ヒューマン・エコロジーの問題

カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/04/01/ 00:00]

「人はすべての家畜、空の鳥、野のすべての獣のそれぞれに名をつけたが、人にふさわしい助け手は見つからなかった」(創世記2,20)。人間のふさわしい助け手は人間しかない。しかし現在、互いが助け手となる「人間相互のかかわり」、つまりヒューマン・エコロジー(人間環境)、ソーシャル・エコロジー(社会環境)に異変が生じている。

地球温暖化という環境の変化は、身近なだけにようやく人々の関心を引き起こし、エコロジー(生態学)は自然の環境保護という見地から様々な具体的な行動を生んでいる。しかし、その一方で、人と人とのかかわりが薄れ、人間性を蝕む孤独地獄の陰が物のあふれる飽食の世に忍び込んでいる。『中央公論』4月号は「いま、隣にある、貧困」という特集を組み、ホームレス、ネットカフェ難民、若者を襲う非正規労働、生活保護に見放された孤独死などの現象に焦点を当てているが、六つほどある論説の中で、岩田正美教授(日本大学)の「家族と企業福祉が壊れた後で・分断された人々をどう救うか」という一文は特に注目される。これによれば、80年代(わが国では90年代)、先進国に出現した「新しい貧困」の特徴は、労働市場から排除され、家族からも排除された「分断された一人ぼっちの貧困」であり、「希望なき貧困」であると指摘している。かつては貧しくても分かち合う家族や会社仲間があったが、いまやそれもない異常な時代だという。

カトリック教会は早くからこの先進国における「新しい貧困」を「第四世界」と呼び(1987年の回勅『真の開発』14参照)、ヒューマン・エコロジーの危機ととらえて警告してきた。また、1991年5月1日、労働者聖ヨゼフの祝日に、故ヨハネ・パウロ2世は回勅『新しい課題』”Centesimus Annus”の中で指摘している。「自然環境の非理性的な破壊に加えて、より深刻な人的環境の破壊を指摘しなければなりません。人々は、絶滅の危機に瀕している動物の天然生息地の保護には、まだまだ不十分とはいえ正しく配慮していますが、(中略)真のヒューマン・エコロジーのための道徳的条件を保護する努力は、あまりにも少なすぎます」(38項)と述べ、都市化による住環境などの問題や、労働のソーシャル・エコロジー(労働環境)の問題を特に指摘している。

回勅は特に家庭の重要性を次のように指摘する。「ヒューマン・エコロジーの第一の、基本的な組織は家庭です。家庭において、人間は真理と善についての最初の概念形成を行い、愛することと愛されることの意味を学び、こうして一人の人間であることが実際に何を意味するかを学ぶのです。ここで家庭とは、結婚によって築かれる家庭のことです」(回勅『新しい課題』39)。ここで回勅は、「生命の聖域」であるべき家庭の使命に触れ、「いわゆる死の文化に対して、家庭は生命の文化の中心です」(同上)と強調している。これは、人間らしく子供を産んで育てる場であると同時に、大人にとっても、人間らしい生活の基盤であることを指摘するものである。

周知の通り、現在、わが国では一人暮らしの家庭が急増している。去る3月15日の毎日新聞によれば、高齢者ばかりでなく、「若年層を含む全体でも世帯の単身化が進み、(2030年間までに)一人暮らしの世帯は05年の1・26倍、1824万世帯になる見込みだ」と報じている(国立社会保障・人口問題研究所発表)。路上生活者だけでなく、一人暮らしも家庭という生活共同体が崩れているという意味でホームレスである。このほか、夫婦の一致と子供の出産と教育という結婚と家庭の目的や使命が曲げられ、受精の瞬間から自然死に至るまでいのちを守る家族の「愛といのちのきずな」を軽視し、あるいはこれを否定するような社会的な現象も広がりつつある。

こうしたヒューマン・エコロジーを蝕む要因は、結婚や家庭のモラル破壊のほかにもいろいろ考えられるが、ここには特に国の怠慢、政治の貧困を指摘しなければならない。国民全体の共通善(基本的人権)を守り補完するのは政治の責任であり、特に「弱者優先」(Option for the poor)は政治の要諦である。しかし、宙に浮いた国民年金記録問題などを見ると、自分のことは自分で守れと言わんばかりの、それこそ無責任な「自己責任論」が気にかかる。「新しい貧困層」ばかりでなく、家庭環境や働く環境など、人間本来の尊厳にふさわしく生きられるヒューマン・エコロジーの破壊の進行は、豊かな国の恥であることをあらためて認識したい。