「友愛」の思想と政治哲学
カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/06/15/ 18:08]
鳩山由紀夫民主党代表が代表就任に際して述べた「友愛の政治」については、なんだかホンワカとしてつかみどころがない、抽象的な政治目標よりは政策が大切だなどと、その評判は必ずしも芳しくない。ただ、あるテレビ番組の出演者の一人が、「あれは鳩山氏の政治哲学である」という意味の発言をしていたのに好感がもてた。
先日、鳩山氏の「友愛」について面白い記事を読んだ。5月21日の朝日新聞「ザ・コラム」、早野透氏の記事だ。この記事によれば、友愛とは、友愛革命の提唱者、日本人を母に持つウィーン大学教授リヒャルトの「闘う」政治理念で、由紀夫氏の祖父、鳩山一郎氏はリヒャルトの著書『人間対全体主義国家』から学んだという。この著書には、「人間は国家のために存在するのではない。国家が人間のために存在する」とあり、その原点は友愛であると唱えてあった。一郎氏はこの言葉に感激して「自由と人生」と改題して邦訳するとともに、「日本友愛青年協会」を設立した。由紀夫氏の友愛思想の由来である。
早野氏はこの記事の中で述べる。「自由が過ぎれば平等が失われ、平等が過ぎれば自由が失われる。この両立しがたい自由と平等を結ぶかけ橋が、友愛という精神的きずなである」と。記事の中でもカギカッコで書かれているから、これは由紀夫氏の言ともとれるが、なかなかうがった見方である。
早野氏はこれにつづけて言う。「そう、フランス革命も「自由、平等」に加えて「博愛」を掲げた」と。確かに、フランス革命の理念は「自由、平等、博愛」であったと言われるが、残念ながら、その結果は理想通りにはいかなかった。自由が過ぎて平等が失われた。つまり、フランス革命のあとに現れた「抑制なき資本主義」は弱肉強食の格差社会を生み出したのである。この矛盾をただそうとして立ち上がった共産主義は、平等が過ぎて自由を失ったことは周知の通りである。要するに、フランス革命の理念には自由や平等の土台となるべき「真理」が抜けていたからである。
現在の世界を見ると、共産主義の失敗は疑う余地がない。しかし、抑制なき資本主義は、今も尚猛威をふるっているように思える。金融危機に始まる世界同時不況の発生によって反省されたかに思われたが、必ずしもそうではなさそうだ。わが国の政治状況を見ても、戦後たどってきた「経済史観」は今回の金融破綻によっていささかも変更の兆しはないように見える。景気対策一辺倒の政府の姿勢はそれを物語る。そんな中で、鳩山氏の「友愛の政治」は国民に良い意味で衝撃を与えた。富裕層優先の経済史観に替わって、一人ひとりが公平な労働配分を得て生きがいを追求できる真の「人間史観」(正確には人格史観)の時代が来るのだろうか、その行く方を多くの国民が見守っている。
わたしは司教(聖職者)だから、政治活動はしないし、いずれかの政党に加担することもない。ただ、政策決定の前提となる政治哲学ないし政治倫理については発言できるし、必要に応じて発言すべき立場にある。そこで、友愛の政治思想に関連してカトリックの政治哲学、すなわち教会の社会教説(たとえば『現代世界憲章』)の中から、その基本理念とも言うべき真の平和を支える四つの柱、すなわち、真理、正義、愛、自由を取り上げてみる。
ここにいう真理とは、神の似姿に造られた人間ペルソナの超越的尊厳を認めることである。この人格の尊厳は万人に共通であり、一切の人間差別を否定する。ここにいう正義とは、人格の尊厳に基づく基本的権利・義務を擁護することである。この基本的人権も万人に共通であり、この点では一切の弱肉強食をゆるさず、むしろ弱者優先の政治体制を要求する。弱者優先とは、富者と違って、弱者(貧者)は自分で自分を守る手段を欠いているからである。さらに、ここにいう愛とは、万人の人格の尊厳と基本的人権を認め、擁護するための原動力となる徳性であって、己を無にして「世のため、人のため」に尽くす精神である。そして自由とは、金銭欲や権力欲に縛られない、良心に基づく政治的な選択の自由であって、これは国民にも政治家にも保障されなければならない。政治哲学の如何は直ちに政治的な良心形成を左右する。
周知のとおり、この発想はかの偉大な教皇ヨハネ23世の不朽の回勅『地上の平和』によって示された理念であって、これは各国の公権においてばかりでなく、国際的な公的機関においても適用されなければならない原則である。