教皇の聖地巡礼と中東の平和
カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/06/01/ 00:00]
教皇ベネディクト16世(82)は高齢にもかかわらず、さる5月8日から18日までの一週間、聖地に巡礼し、ヨルダンとイスラエル、そしてパレスチア暫定自治区を歴訪したが、バチカン紙『オッセルバトーレ・ロマーノ』(仏語週刊紙)は次のように意味づけている。「(この旅は)神の道をたどる信仰の原点への旅である。この神は、ただの神ではなく、アブラハム、太祖たち、モーセ、そして預言者たちにいろいろの仕方で自らを現した神であり、ナザレのイエズスのうちに人となり、死んで復活したメシアである。従って、この旅は何よりもまず巡礼である」と。
しかし、この旅は同時に聖地に住む人々、すなわちイスラム教徒、ユダヤ人、そして少数派ではあるがキリスト教徒に対して示すローマカトリック教会の友情の旅でもあった。教皇は一週間の旅の間に10回にわたる公式メッセージを述べられたが、そのいずれにおいても聖地に生きている人々への熱い友情と親近感を示すものであった。しかもそれは、具体的な宗教的信条や実践に違いはあっても、究極においてはともに一神教徒であり、創造主であり救世主である唯一の神を信じるということは、互いに一つの起源と目的を共有していることであり、従って、共同の父のもとに互いに兄弟姉妹であることを意味するからである。
カトリック教会が第2バチカン公会議において宣言した次の言葉は、どこよりもまず一神教徒の地である聖地において妥当する。「神は全人類を地の全面に住まわせられたので、すべての民族は一つの共同体をなし、唯一の起源を有する。また、すべての民族は唯一の終局目的を持っており、それは神なのである」(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』n.1)。
その上、第2バチカン公会議はイスラム教徒やユダヤ人との信仰上の深い結びつきと親近感を明らかにしている。公会議は言う。「教会はイスラム教徒を尊重する。彼らは唯一の神、すなわち、自存する生ける神、あわれみ深き全能の神、天地の創造主、人に語りかけた神を礼拝し、イスラム教の信仰がすすんで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じく、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している」[同上3]。
また、ユダヤ人については、「この聖なる教会会議は、新約の民がアブラハムの子孫と霊的に結ばれている絆を思う」として述べる。「事実、教会は、われわれの平和であるキリストが、十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ、この両者をご自分において一つのものとされたことを信じているのである」(同上3)。
従って、教皇の今回の聖地巡礼そのものが、同じ一神教を奉ずる聖地の民に対するカトリック教会の平和メッセージであったと言わなければならない。この平和メッセージの中で、わたしは特に次の言葉に注目したい。教皇は5月13日の朝、パレスチナ暫定自治区にあるキリストの生誕地ベトレヘムを訪れたが、アッバス議長による歓迎式典の中でのあいさつで、「正義なくして平和なく、赦しなくして正義なし」(pas de paix sans justice, pas de justice sans pardon)という前任者ヨハネ・パウロ2世の「02平和メッセージ」の言葉を引用し、中東地域に平和を築くためには、互いに赦し合って対話の席に就かなければならないと強調したことである。互いに赦し合い和解して、隔ての壁を取り除くことが、交わりと一致への、つまり平和への唯一の道であるというこのメッセージは、キリスト教の本質的かつ中心的な使信であるから、どこかの政治指導者ではなく、キリスト教の指導者である教皇であるからこそ発せられる当然のメッセージであり、別れ争う中東のユダヤ人とイスラム教徒に一番必要な呼びかけであった。
創造主なる愛の神は人類が神の愛のうちに交わりかつ一致して平和に生きることを望まれた。久遠の平和こそ人類創造の目的であったと言ってよい。しかし、原罪と自罪によって神と人類、人人との間の調和と秩序を乱した人類は、回心と神からのゆるしなくしては平和を取り戻すことはできなかった。そして実際、神の御独り子は人となり、人間の仲間かつ代表として、十字架上に死んで人類をあがなった結果、人類は赦されて神と和解し、秩序と平和を取り戻すことになったのである。
それゆえ、過去の一切の対立や争いを赦し合って対話の席につき、一切の違いを超えて互いに交わり、一致と平和を確立するようにという教皇のメッセージは、世界のカトリック教会の名においてなされた福音宣教であると正当に言うことができよう。それは同時に、われわれカトリック者への呼びかけと勇気づけでもあった。聖地に住む少数派のキリスト者への教皇の語りかけはまさにその通りであった。