科学技術の進歩と人間の進歩
カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/08/15/ 00:00]
人類は本当に進歩しているのだろうか。邪悪に満ちた現代社会を見て、多くの者がそう考えているのではなかろうか。教皇ベネディクト16世はその回勅『希望による救い』の中でこの問題を取り上げ、フランクフルト学派の思想家テオドール・アドルノの言葉を紹介している。「よく考えてみると、進歩とは、投石機から原子爆弾への進歩です」。
ベデディクト16世は言われる。「実際、今やこのことばは、進歩の隠してはならない側面です。別の言い方をするならばこうです。進歩のあいまいさは、明白なものとなりました。進歩が善に向けて新しい可能性を与えたことは間違いありません。しかし、進歩はまた悪に向けた途方もない可能性も開きました」(同22)。
さらに、進歩の実態について教皇は次のように述べている。「まず認めなければならないことがあります。それは、漸進的な進歩は物質的な領域でのみ可能だということです。物質の構造に関する理解は深まり、ますます多くの発明が行われています。そこで、わたしたちは自然をますます支配することに向けて進歩し続けていることがはっきりわかります。しかし、倫理的意識と道徳的決定の領域では、同じように漸進的な進歩は不可能です。その理由は簡単です。人間の自由はつねに新しいからです。そして、人間はそのつど新たに決断を下さなければならないからです」(同24)。
教皇の指摘は非常にはっきりしている。つまり、科学技術は進歩し得るが、人間は進歩しないというのである。科学技術の進歩についてはいまさらいうべきことはない。その日進月歩の発達は否が応でも目の前に展開されているからである。しかし、人間の進歩については少し説明がいるだろう。
まず、人間は自由な存在である。従って、人間個人は初手から自分で自分の人生を決めなければならない。わたしの人生はわたしがつくるのであり、あらかじめ他人がわたしの人生を決めるのではない。人生の選択を教皇は「根本決断」(Decisio fundamentalis)と呼ぶ。そのうえで、日々の個々の問題に対して、そのつど自分で取るべき道ないし手段を選択し、実行しなければならない。このように、人間は個々に進歩を遂げなければならないのである。この点では、昔の人も現代の人も変わりはない。そういう意味で、倫理的意識かつ道徳的決断の面で、人類に進歩はないと言われるのである。
次に、人間が自分の人生を選択するにあたっては共同体の助けが有益であり必要であると教皇は言われる。人間は共同体の中で生まれて育てられ、大きくなってからは自ら共同体に貢献してその恩恵を受けて成長してゆく。共同体の中で特に大切なのは家庭である。愛し合う夫婦の間に生まれ、その愛の中で注意深く育てられる時、人格の基礎、つまりそれぞれの人となりが培われ、それぞれの人生が決められていく。その意味では、今に時代は不幸な時代かもしれない。現代はある意味で家庭崩壊の時代だからである。事実、多くの子供たちが両親の愛情や家庭における人間関係の機微を体験することなく、小さいときからテレビや携帯電話などのマスコミの中で、主観主義や個人主義といった時代精神によって支配されて、人生の行く手を見失う危険が多い。
最後に、一人ひとりが良い人生の選択を成し遂げ、道徳的に成長してゆくためには、愛が必要だと教皇は言われる。愛とは、己を無にして人のために尽くし社会のために尽くすことである、しかし、このような真の愛に徹するためには、自分を犠牲にして人に仕えることが必要になる。つまり、他人を幸せにしながら自分は損をすることになる。果たしてそんなことができるのだろうか。主観主義・個人主義の世相にあっては、他人のために自分が犠牲になるなど、こんな馬鹿げたことはないと人は感じるだろう。こうして、自分さえよければという、この世の地獄が実現する。今の邪悪な世の中のことである。
従って、一人ひとりの人間が自分の自由を生かしてよい人生を送るためには、どうしてもキリストによって示され、与えられる神の愛にあずかると同時に、変わることのない神の愛を信じ、これに希望する必要がある。こうして、神の愛とその約束、すなわち、死後の体の復活と至福のいのちの約束に希望を置くときにのみ、己を無にして人のために尽くし、価値ある人生を全うすることができる。そういう意味では、一人ひとりの人生の決断に必要な共同体の一つとして、わたしたちが神の愛・キリストにあずかる唯一の手段として、教会の必要性を強調しなければならない。それは同時に、一人ひとりの人間の進歩のために信仰が必要であることを意味する。