弱者優先こそ政治の要諦

弱者優先こそ政治の要諦

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/09/15/ 00:00]

先日の総選挙の結果は教会の立場から見ても重要であった。半世紀にわたった一党独裁政権が崩壊し、政権担当能力を備えるに至った民主党に政権が移るからである。この政権政党交代の意義についての意見は多様であるが、わたしは、わが国における民主主義の本格的な到来を意味すると同時に、政治の質を転換する意味があったと思う。

政治の質の転換に意味がるというのは、結論からいえば、景気中心、すなわち経済第一主義的な政治から国民生活中心の政治への転換である。それは、選挙運動中の麻生首相が「景気対策」の重要性を力説していたのに対し、鳩山民主党代表は「国民生活」のための政治への転換を強調していたことから明らかである。そして選挙の結果、多くの国民が民主党政権への転換を選んだのである。そういう意味で、わたしはこの選択は正しかったと評価したい。

そもそも政治は基本的に「弱者優先」でなければならない。前教皇ヨハネ・パウロ2世は、「貧しい人々を優先的に選択すること」(Option for the poor)は「キリスト教の愛の実践において特別な首位性を持つもの」(回勅『新しい課題』11)と述べ、この原則は政治においても実現されなければならないとして次のように述べる。「富裕な階級は、その富に守られているから、公権の保護をそれほど必要としません。しかし、貧しい人民は不正義から身を守る富を持たないから、特に国家の保護を頼みとしているのです」(同上10)。

教会の社会的教えの中のこの教えは、すでに旧約聖書の時代からの伝統であることを、教皇は他の個所で指摘している。「イスラエルの律法によれば、正義は特に弱者を保護することにあり、詩篇作者が述べるように、王はこの点において傑出していることが期待されていました。『王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人をあわれみ、乏しい人のいのちを救いますように』(詩篇72・12-13)。この伝統の基礎は、第一に天地創造と神の計らいの神学と結びついた、全く神学的なものです」(ヨハネ・ウロ2世使徒的書簡『紀元2000年の到来』13)。

教皇はさらにつづけて言う。「ですから、創造された富を人間全体の共通の財産とみなしてきたのです。個人財産としてこれらの富を持つ人々は、神の御名における奉仕を任されている管理人、召し使いにすぎません。造られた富は公正な方法ですべての人に供されるべきであるというのが神の意志ですから、完全な意味では神のみが所有者なのです」(同上13)。つまり、この世の富はすべての人の共有財産として与えられているのだから、人類全体で公平に配分しなければならないということである。

しかし、一方、人間は本質的に自由な存在であるから、自由な経済活動は当然であるけれども、その故に世の中に競争が生じ、競争が生ずれば強い者が勝ち、弱い者が負けるから、個人的にも地域的にも弱肉強食の格差が生じることは経験によっても明らかである。だから公権、すなわち昔は国を治める王が、民主主義の今日では選ばれた政権が、強者の自由の行き過ぎを制約すると同時に、弱者の保護と支援に権力を行使しなければならないのである。弱者優先の原則とはこのようなものである。

振り返れば、敗戦後のわが国は政府や官僚の指導のもとに国民が必死になって働き、奇跡とまで言われるほどにいち早く経済的復興を成し遂げ、米国に次ぐ第二の経済大国の名をほしいままにするまでになった。しかし、冷戦が終わり、わが国経済が低成長時代になった現在、経済大国の夢を追い続けるのは時代錯誤であると言わなければならない。年間3万人を超える自殺者を生み、ワーキングプアーを大量に抱える日本は、すでに経済大国とは言えないのである。

しかし、景気優先から民生重視に政治を転換するのはそんなに簡単ではない。それに、民主党政権の手腕は未知数である。しかし、彼らの掲げる政治理念は間違ってはいないと思う。願わくは「弱者優先こそ政治の要諦」という理想をしっかり踏まえて、一歩でもその理想に近づけるよう頑張ってほしい。国民みんなが公平に心豊かな生活を保障されれば、エコノミックアニマルなどの汚名をそそぐと同時に、わが国は本当に世界に尊敬され、見習われる国になるのではなかろうか。