キリスト者の歴史感覚

キリスト者の歴史感覚

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/11/15/ 00:00]

一年の周期は、一般社会では1月に始まって12月に終わるが、カトリック教会の典礼(宗教行事)においては12月に始まって翌年の11月に終わる。これを教会では「典礼歴年」と呼ぶが、その中心テーマは「キリストの神秘」の記念であり、それは人類の歴史、さらには宇宙の歴史と深くかかわっている。キリストの神秘なしには歴史本来の意味もないからである。

まず、「キリストの神秘」は天地万物の創造に始まる。全聖書の冒頭に次のように記されている。「はじめに、神は天と地を造られた」(創世記1,1)。使徒聖ヨハネはこれを次のように解説する。「すべてのものはみことばによって造られた。造られたもので、みことばによらずに造られたものは何一つなかった」(ヨハネ1,3)。聖パウロは「みことば」は「神の御子」であるとして次のように説明する。「御子は目に見えない神の生き写し、すべての造られたものに先立って生まれたかた。それは、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、すべてのものは御子のうちに造られたからであり、すべてのものは御子を通じ、御子へ向けて造られているからである」(コロサイ1,15-16)。

次に、「キリストの神秘」はその死と復活、すなわち「過越の神秘」において頂点に達する。

キリストの死と復活について聖書は証言する。「わたしがまず最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、キリストが、聖書に書いてあった通りにわたしたちの罪のために死んでくださったこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあった通りに三日目に復活したこと、そして、ケファに現れ、次いで、十二人に現れたということです。それから、五百人以上の兄弟に同時に現れました。そのうちの大多数に人は今なお生き残っています」(1コリント15,2-6)。過越の神秘を頂点とするキリストの神秘はこう説明される。「その神秘とは、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭として一つに結び合わせるということです」(エフェゾ1,10)。みことばのうちに創造された宇宙(コスモス)の秩序は、いったんは悪魔の悪だくみと人類の罪によって壊されたが、過越の神秘によって完全に立て直され、新しい創造が開始されたのである。

最後に、「キリストの神秘」は世界の終りにおけるキリストの再臨によって完結する。イエスは再臨を予告して言われた。「そのとき、人の子(キリストのこと)のしるしが天に現れる。するとそのとき、地上のすべての民族は悲しみ、そして、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイ24,30)。そしてそのとき、世界は終末を迎え、「新しい天と新しい地」(黙示録21,1)が現れるであろう。そこで、全聖書はキリスト来臨への熱い願いで結ばれる。「主イエスよ、来てください」(黙示録22,20)。

以上のように、教会が典礼歴年を通して記念する「キリストの神秘」は人類と宇宙の起源から終局に至るまでを包括し、その全歴史を貫くのである。教皇ヨハネ・パウロ2世は次のように総括する。

「キリスト教では、時間は根本的に重要です。時間という次元において世界は創造されました。救いの歴史は時間の中で展開し、受肉の「時の充満」において頂点を極め、時間の終りにおける神の御子の栄光の再臨において目標を達成するのです。・・・キリストは時間の初めであり終わりであり、年も日も時もみな、キリストの受肉と復活によって包括されているがゆえに「時の充満」の一部となります。それゆえ、教会は一年という区切りで典礼を行い、典礼に生きるのです」(『紀元2000年の到来』10)。

なお、「時の充満」については、次のように説明される。「時の充満とは、事実、永遠性であり、永遠のかた、すなわち神ご自身です。したがって、「時の充満」に入るとは、時間の終わりに到達し、神の永遠性において時間の完成を見出すため、時間の限界を乗り越えることなのです」(同上9)。

要するに、キリスト者は、過越の神秘を頂点として歴史を貫くキリストの神秘を、年間の典礼を通して記念しつつ、至福の時の到来を見据えて「時の充満」を生き始めている。だから、ドロドロしたこの世の中にあってもこれに埋没されることはない。どのような悪の抵抗があってもキリストは必ず勝利し、神の計画は実現すると固く信じているからである。主は言われる。「われは世に勝てり」(ヨハネ16,33)。