環境問題の倫理性とその根拠

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環境問題の倫理性とその根拠

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/01/01/ 00:00]

昨年12月7日に開幕し18日に閉会した国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)には、約190カ国から政府代表団、環境NGOなど約15000人以上が参加、世界の関心がようやく高まったことを示したが、19日、法的拘束力のないコペンハーゲン合意に留意することを決定しただけで、実効ある枠組みは作れなかった。

ところで、地球温暖化ばかりでなく、地球上のあらゆる生物の生存を脅かすまでに深刻化した地球環境問題について、カトリック教会も大きな関心をもって発言してきたが、その理由は、環境問題が単なる政治問題にとどまらず、きわめて重要な倫理性を帯びた問題であるからである。前教皇ヨハネ・パウロ2世は述べている。「環境問題にとって重要なのは倫理的諸価値であって、これはまた、平和な社会の土台でもあります」(1990年「世界平和の日」のメッセージ)。

咸鏡問題が倫理的な問題であるとすれば、それは地上の正義と福祉を担当する政治の問題であると同時に、霊的な領域を使命とする宗教の領域であり、従って教会が環境問題について発言するのは至極当然である。そこで、ここでは、環境問題の倫理性の観点から特に二点、すなわち、1-人間は創造主から地を治めるようこれを委託されていること、2-地球環境の保全と活用は人類共同の使命であることについて考えてみよう。

1-世界は人間に委託されている

「神はご自分にかたどって人を創造された。・・・神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』(創世記1,27-28)。

これを受けて、カトリック教会のカテキズムは教える。

(373) 神の意図によれば、男と女は、神の「協力者」として地を従わせる使命(創世記1,28参照)を持っています。この支配権は、横暴で破壊的なものであってはなりません。「存在するすべてを愛される」(知恵11,24)創造主にならって、男と女は、神が自分たちにおゆだねになった世界に対する責任を負っています。

(2415) 神の第七のおきては、被造界の保全を尊重するよう求めます。動物だけではなく植物や無生物さえも、本来は、過去・現在・未来の人類の共通善に向けて造られたものです(創世記1,28・31参照)。世界の鉱物・植物・動物資源は、倫理的要求を尊重しながら利用しなければなりません。創造主は人間に無生物や人間に以外の生物に対する支配権を与えてくださいましたが、この支配権は絶対的なものではありません。将来の世代も含めた人々の生活の質を考慮して節度を保ち、宗教心をもって被造界の保全の尊重を心掛ける必要があります。

2-地球の保全と使用は人類共同の使命である

「神は言われた。見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物になる」(創世記1,29)。

第2バチカン公会議はこれを次の様に解釈する。「神は地とそこに含まれているあらゆる物をすべての人と民族の使用に指定した」(現代世界憲章69)。そしてヨハネ・パウロ2世は述べている。「究極的に、地球は共有の財産であり、その実りは全人類のためなのです」(ヨハネ・パウロ2世‘90平和メッセ―ジ)。環境問題は国境を越えた問題なのである。

COP15にみられるとおり、地球環境の問題は今や最高に世界の関心となっており、同時にまた世界共通の課題であるという自覚も高まっているが、人間のエゴイズムは必ずしもその使命に忠実であり熱心であるとは限らない。人間のエゴ、なかんずく国益という名の国家エゴ、とくにアメリカや中国と言った大国のエゴが見られたのは残念である。また、途上国も環境問題への免責理由として被害者意識を強調している。こうした国家エゴの壁は打破しなければならないものであり、また、共通の正しい使命感に基づく良心的な世論の高まりで打破することのできる問題である。