ダーウィンの『種の起源』から150年

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ダーウィンの『種の起源』から150年

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/12/15/ 00:00]

さる11月24日は、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』出版150周年であった。生物の進化を主題とした最初の科学的著作である『種の起源』は1859年11月24日イギリスで刊行され、初版1250部が初日に売り切れたという。理性の推理を通して神を探求していく「自然神学」の書であったが、神の天地創造説を否定するか否かで大きな論争を巻き起こした出版である。

ダーウィン自身が『種の起源』の最後で言う。「高名な著者たちは、種が個々別々に創造されたとする見解に十分満足しているようである。しかし私は次のように考える方が、創造者が物質に刻印した諸法則についてわれわれが知っていることによりよく一致すると思う。すなわち、個体の生死を決定しているのが第二原因であると同様に、世界の過去・現在の生息者の産出と絶滅は第二原因によってもたらされてきたのである」(松永俊男著『チャールズ・ダーウィンの生涯』229ページ)。「第二原因とは神が設定した法則のことで、第一原因が神を意味する。『種の起源』では自然選択が神の設定した法則とみなされているのである」(同上)。

このように見れば、生物の進化論は特に啓示の教えに反するもとは思われない。しかし、創世記の天地創造の記述を文字どおりに解釈して、われわれが今見るような世界や生物が初めから造られたとするなど、進化論に対する賛成・反対の両論が続いている。同日の朝日新聞社説では、「いまだに多くの人が天地創造説を信じ、教育現場でも進化論への反発が強い」と指摘すると同時に、「進化論へのチェンジ」や進化論を通じて「ヒトの未来を見つめ直す」よう期待して、創造説反対の態度を示しているように見える。

しかし、こうした進化論をめぐって起こるキリスト教への誤解は、何よりも聖書、特に天地創造を物語る「創世記」1,2章の読み方に誤解があるからに他ならない。創世記はひとえに宗教的真理を教える書であって、科学的な書ではない。従って、創世記は、当時の人々の知識を用いて、「宇宙以前に存在する唯一の神が、その英知と愛に基づいて天地万物を無から創造された」と教えているのであって、宇宙生成の過程や生物の発生について科学的に説明したものではないのである。

従って、天地創造に関する聖書の記事は宗教的真理に関する内容だけが重要であって、記事の中の自然科学的内容については、今日の科学の知識によって如何様にも探求され、説明されてよいのである。カトリック教会はかなり早い時期から、聖書の教えに反しないものとして進化論を受け入れている。

たとえば、教皇ピオ12世の1950年4月12日付の回勅『HUMANI GENERIS」(ウマーニ・ジェーネリス=人類)は次のように述べている。「教会は、進化論が、既に存在して生きている素材から引き出されたものとして人体を探求する限り、これを禁じることはない。なぜなら、カトリック信仰が義務づけるのは、個々の霊魂が神の直接の創造であると認めることだからである」(”AUX SOURCES de la VIE SPIRITUELLE”n.464)。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2,7)という聖書の記事はその意味である。だから、 もしも科学的に立証されるならば、人体が猿の体からであってもかまわない。しかし、わたしたちは断じて猿の子孫ではない。わたしたちは各々、神の似姿として直接神に造られたのである。

すでに明らかなように、科学(理性)と啓示(信仰)は互いに矛盾しない。両立できるし、また両立して相互補完しなければならない。物質的な存在としての人体や世界は科学の研究対象であり、その科学的真理は教会もこれを認める。しかし、人間と世界がどこから来てどこへ行くか、この世界と人生の究極の意味は何であるかについては、人間の心理や自然界を通して推理はできるが、――それゆえに自然神学と呼ばれる哲学が可能になる――これを確証することはできない。それは、天地万物を無から創造された神からの啓示がなければ、人間はこれを知ることができないのである。そしてこの啓示は、古代イスラエル民族における預言者たちを通して始まり、人となった神の言葉、すなわちイエス・キリストによって完成された。

第2バチカン公会議は断言する。「実際、人間の秘義は肉となられた神の言葉の秘義においてでなければ、本当に明らかにはならない。・・・キリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(現代世界憲章22)。