「現代霊性論」をめぐって
カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/04/15/ 00:00]
「日々の生活の中で、私たちの思考や経験は「霊」という「わけのわからないもの」に現実には支配されています。それはアカデミックな科学の中では主観的には議論されることがほとんどありませんが、現実の生活習慣や身体的実感には深く入り込んでいます」(内田樹・釈徹宗『現代霊性論』)。
これは、上記2氏による対話型講義を収録したこの本の冒頭の言葉であるが、霊性がいかにわたしたちの生活に深く入り込んでいるかを指摘している点においては同意できる。このあと、釈氏は、WHO(世界保健機構)が1998年に発表した「健康とは、完全な肉体的、精神的、霊的及び社会的福祉の活力ある状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」という言葉を紹介している。注目されるのは、ここに、今までなかった「霊的」(spiritual)という言葉が新しく入ったことである。つまり、身体的、精神的かつ社会的に順調であるばかりではなく、魂の問題、あるいは宗教的な問題なしには人間の健康や幸せは考えられないということである。
ちなみに、世界保健機構のこの提案に欧米がストップをかけ、日本もこれに同調したそうだが、残念なことである。著者は、「日本は、こういう宗教的な文言を入れるのが嫌いみたいですね」と評しているが、なるほど、そうかもしれない。
さて、『現代霊性論』は、伝統的な諸宗教のほか、特に近現代に顕著な新宗教や新々宗教、さらにはニューエイジをはじめ、精神療法に至るまで、さまざまなスピリツアル(霊性)と呼ばれる運動が指摘されているが、「霊というわけのわからないものの現実」という冒頭の文言にも見られるとおり、何が真の霊性であり、何がその実践において重要であるは必ずしも明確に語られていない。そこで、カトリックの立場で人間の霊性とその対象について考えてみたい。
カトリックの教えによれば、人間とは「肉体と霊魂から成っている一つの存在者」であって、肉体的には物質世界に属しており、その肉体的生命の維持のためには物質的な食物が必要なように、霊的には神の世界の属しており、霊的な糧が必要である。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」とキリストが言われた通りである。この霊的な糧とは、何よりもまず人生の本当の意味と目的を知ること、そして、その目的実現のために何が必要かを知ることである。
その上、肉体的欲求と霊的な欲求との間の調和と均衡が壊れていて、その内部矛盾のゆえに人間は絶えず揺れ動き、精神的に不安定な状態に置かれている。そのため、人間は何が真実の霊性であるかを識別し、その霊性に基づいて霊肉の均衡と調和を取り戻して真の健康(salus―救い)に達するにはどうすればよいかを知らなければならない。
そこで、まず何よりも、現代世界におけるスピリツアル運動には危険で有害なものがあることを考慮する必要がある。現代霊性論にも指摘されているが、危険な霊性の最たるものは15年前に地下鉄サリン事件を起こしたあのオーム真理教であろう。事件にかかわった人たちの間には高度な学歴をもつ優秀な人材が多数含まれていることに世間は驚いたが、極限にまで物質化されたこの飽食の時代に、霊的な渇きがいかに深刻であるか、そして、その抑圧された霊的渇望を満たすために「超人になれる」という宣伝にいかに人間は弱いかを如実に示していると言えようか。それだけに、その宗教が人間本性に合致するかどうか、いわゆる信仰の合理性について冷静な判断力をもって識別しなければならないかが分かるであろう。
もう一つの問題は、人間の霊的欲求がいかにも大きくまた限りないものであって、地上の一切の物質的なものによっても、さらには造られた一切の有限の霊力によっても、充足されないことを知るべきであろう。聖書がいう「神の似姿として創造された」(創世記1,26参照)人間にとっては、神以外にはその真正な霊的欲求を満たし得るものは何もないのである。「神よ、あなたはわたしをあなたに向けてお造りになりました。あなたのうちに憩うまで、わたしの心は安らぐことがありません」という聖アウグスチノの言葉が思い出される。
わたしたちは、「わけのわからない」霊的な世界を明らかにし、人の心を満たす神への道を示したのは、創造主にして父なる神が人類の救い主としてこの世に派遣されたイエス・キリスト以外にないと信じている。キリストは言われたのである。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14,6)。まさにキリストは、時代を超えて、キリスト教霊性の中心である。