マスメディアの使命を考える

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > マスメディアの使命を考える

マスメディアの使命を考える

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/05/01/ 00:00]

現代世界におけるマスメディアの重要性を熟知するカトリック教会は、第2バチカン公会議において、世界各地の教会で「広報の日」を設定するよう勧告した。1963年12月4日付の広報機関に関する教令『Inter Mirifica』n.18 である。この勧告は早速実施されており、わが国では、今年は5月9日に実施される。

そこで今回は、カトリック広報の日にちなみ、マスメディアの使命について考えてみたい。まず、『カトリック教会のカテキズム』の言葉を紹介しよう。「現代社会では、社会的コミュニケーション・メディアは情報、文化の促進、教育のための重要な役割を担っています・・・」(2493番)。

ここに言う「社会的コミュニケーション・メディア」(media communicationis socialis)とは、「マスコミの手段」ということであって、無名のマス(大衆)の代わりに人格的な意味をもつ「社会的」(social)を使用したカトリック教会独自の用語である。この趣旨を踏まえたうえで、わたしは便宜上「マス」を使用している。

「情報について」(in informatione)とは、「メディアを用いて情報を伝達するのは、共通善に奉仕するためです。社会には真理、自由、正義、連帯に基づいた情報を得る権利があります」(『カトリック教会のカテキズム』2494)という言葉に注意する必要がある。情報に対する社会の権利に関連して、教令は次のように述べる。「この権利が正しく行使されるためには、まず、その内容に関して、情報がつねに真実で、正義と愛とを損ねない限り、完全なものでなければならず、一方、その方法に関しては、情報は公正で適切でなければなりません。言い換えれば、情報を求めるときにも、またそれを公表するときにも、倫理の基準と人間の正当な権利および品位とが尊重されなければなりません」(教令5)。

「文化の促進について」(in promotione culturali)とは、「人間の尊厳と価値を尊重する文化の促進」(‘09広報の日メッセージ)と言い換えてよい。従って、人間の人格的な尊厳を損ねるような情報や、たとえ事実であっても、スキャンダル情報の公開は厳に慎まなければならない。

「教育のため」(in formatione)という表現に特に留意しなければならない。現代の青少年は毎日マスコミの渦の中に生活しており、携帯電話の普及などによってその影響力は驚くほど増大しているからである。また、大人にとっても、マスメディアは生涯教育の重要な手段足り得ることは言うまでもない。

最後に、「重要な役割」(majors partes)という言葉に注意したい。役割とは使命のことであり、使命とは「神から与えられた任務」のことであるから、情報の送り手にとっても受け手にとっても、その使命に忠実にこたえることは、重要な良心的な義務であると心得なければならない。

以上のことを念頭に現在のマスメディアを見るとき、世界各地のニュースをはじめ、優れた教養、娯楽番組など、多くの恩恵とともに、問題点も多々あることを認めざるを得ない。最近の新聞や雑誌に載ったマスメディア批判の中から二つを紹介する。

毎日新聞の論説委員・星浩氏は「小沢神話の虚実」に関連して述べている。「こうした神話の責任はメディア側にもある。評論家の高野孟氏は『小沢氏を強力な権力者に仕立て上げて検察との攻防などを興味本位に描く。小沢氏の部が悪くなると、一斉に攻撃する。いったん持ち上げたヒーローを、手のひらを返してたたき落とすのは、マスコミの常套手段だ』と話していたが、的を得ていると思う。そういえば、テレビ局の知人に『小沢氏の影響力は言われているほど大きくない』と指摘したら、『それでは視聴率がとれないし、面白くない』と不満そうだった」(毎日新聞2月20日、政治コラム)。

また、鳥越俊太郎氏は「推定無罪の原則」と題して述べている。「一応、推定無罪の原則を知っているはずの新聞やテレビの報道が最初から有罪と決めつける伝え方になっているのに、私は最近特に疑問を感じます」(毎日新聞3月29日)。

たった二つの引用だが、今のマスコミの偏向ぶりが推測できる。視聴率を上げるための興味本位の報道や人権を無視した暴露記事が人心に与える悪影響を心配せざるを得ない。真実を曲げた世論操作は重大な犯罪である。従って、マスメディアの「送り手」の良心的な報道姿勢と社会奉仕の精神はもとより、「受け手」の賢明な識別や判断、そして、特に青少年に対して、メディア報道をうのみにしない徹底した批判精神を育てる教育の必要を強調したい。