日本26聖人は、なぜ殺されたか

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日本26聖人は、なぜ殺されたか

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/02/01/ 00:00]

2月5日、世界中の教会は長崎で殉教した日本26聖人を記念する。わたしは長崎時代、毎年、西坂の殉教地で共同ミサにあずかり、26聖人を偲んだものだが、鹿児島に来てからはそれもできなくなった。今年はネットの仲間たちとともに記念したい。

26聖人は、1596年12月8日、京都と大阪で捕縛された。バウチスタ神父らフランシスコ会の司祭と修道士6人、その教会に出入りしていた信徒14人、パウロ三木らイエスズ会関係者の3人、合計24人である。後の2人は、長崎への移送中の24人の世話をしていたキリシタンで、殉教をともにすることを望み、懇願して仲間に加えられた。26人はキリシタンの町・長崎に護送され、1597年2月5日、西坂の刑場で「見せしめ」のため、多くのキリシタンや宣教師の目の前で十字架につけられ、左右から二本の槍を受けて殺された。

では、なぜ26人のキリシタンは殺されたのか。殉教の理由について多くの研究者がさまざまに論じているが、わたしは、学者としての客観的な見方として、キリシタン排撃の端緒となった秀吉の「伴天連追放令」の言葉に注目している、国際日本文化研究センター教授・末木文美士著『近世の仏教』(吉川弘文館2010)の主張に注目したい。

著者は述べる。「信長が伝統的な神仏に挑戦的で、キリスト教に友好的であったのに対して、秀吉は当初はキリスト教を黙認していたが、天正十五年(1587)、九州平定の過程で突然伴天連(宣教師)の追放を命令し、禁教に転じた。やがて慶長元年(1596)、サン・フェリーペ号漂着事件をきっかけに、二十六聖人殉教にまで至ることになった」と、友好から禁教への経過を概観している。

そのうえで、次のように追放令の文言からキリシタン禁教の理由を指摘する。

「ここで注目しておきたいのは、このような禁教の過程で、その理由づけとして日本神国論が浮上してくることである」と述べ、伴天連追放令の第一条「日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授けられ候儀、太(はなはだ)以て然るべからず候事」を紹介する。そして、日本神国論とは、神仏習合の中から出て来たものだと説明し、伴天連追放令の第三条、「日域の仏法を相破る事曲事に候」を引用する。そして、日本神国論は「日本を神仏の国としてキリスト教を排除するという構造と見ることができる」と結論する。この点、日本神国論は仏教を排除したのちの「国家神道」とは異なる。

著者は別の個所で、「キリシタン弾圧についてはさまざまな原因が考えられるが、キリスト教が強大化して政治的な勢力となる危険や、キリスト教を先兵とした軍事的な侵略を恐れたことなどが指摘されている。それに対して、秀吉が追放令の中で日本を「神国」と表明したことは、徳川幕府においてもキリシタン排撃の根本原則として踏襲され、いわば日本の宗教的なアイデンティティを表わす言葉となっていく」と述べている。

しかし、キリシタン排撃の理由として唱えられた日本神国論の本音は、キリシタンの伸長を恐れた神仏の一部指導者の保身のための言い訳であり、彼らの脅しや讒言におびえた秀吉にとっても同じであった(キリシタン嫌いの側近、施薬院徳運は讒言を繰り返していた)。これは、裏を返せば、神国論を持ち出す以外、キリシタンたちの行状に非難すべき点が何もなかったことを意味しよう。事実、フランシスコ会の神父たちや関係する信者たちはキリスト教宣教の傍ら、神仏からも支配者からも見捨てられていた貧しい人々や病人たちの救済に献身していた人たちであり、パウロ三木らイエズス会関係者らもキリスト教を広めていたにすぎない。彼らは民衆から尊敬され、感謝されていた。縄目を受け、死を宣告されながら、嬉々として死地に赴く殉教者たちの姿に涙したものも多かったという。

殉教者たちは、日本という国は秀吉が勝手に決めた神仏の国ではなく、天地創造の神に造られ愛されているすべての日本人の国であることを百も承知しながら、キリスト教の正しさを生命をかけて証明する絶好の機会として、感謝と喜びのうちに不当な死刑を甘受した。こうした殉教者たちの心を代弁するかのように、説教師パウロ三木は十字架上から見守る人々に話しかける。

「皆の衆、お聞き願いまする。私はルソン人ではござらぬ。れっきとした日本人でござる。そしてイエズス会の修道士でございまする。私は何の罪も犯したわけではござりませぬ。キリシタンの教えを広めたという理由だけで殺されまする。この理由で殺されるのを私は喜んでおり、神さまから与えられるこのお恵みを感謝申し上げまずる。死に臨んで私が偽りを申さぬことを信じてくださいませ。キリシタンの教えによるほか、救いの道はござらぬことを確信して申し上げまする。この死罪について太閤さまはじめお役人衆に、何の恨みも抱いておりませぬ。切に願いまするのは、太閤さまを始め日本の皆の衆がキリシタンにお成りになさって救いを受けなさる事でございまする」(片岡弥吉著『日本キリシタン殉教史』107㌻)。

26人の殉教の後もキリシタンたちはその数を伸ばし、キリシタン文化を花開かせる。古くから言われる通り、まさしく「殉教者の血はキリスト信者の種」(Sanguis Martyrum, Semen Christianorum)となった。後に26人はピオ9世によって日本殉教史の初穂として聖者の列に加えられる。“キリシタンの復活”(宣教師との再会)も間近い1862年(文久2年)のことであった。