“欲望は権利ではない”
カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/03/01/ 00:00]
“欲望は権利ではない”。ある雑誌の書評で見たこの表現に、わたしは一瞬衝撃を受けた。はじめて見た表現だからであり、しかも、真実を突いていたからである。そして、単なる欲望を権利ででもあるかのように振る舞う人間たちのことを思った。
この言葉は故佐野洋子著『役にたたない日々』(朝日文庫)の中に見られる表現である。わたしはこの人を知らないが、帯表紙などによると、佐野さんは大変有名なエッセイストで、紫綬褒章や小林秀雄賞などを受賞しており、絵本『100万回生きたねこ』は78万部のロングセラーを誇っているとか。人物はどうであれ、わたしはその表現が気に入ったのである。「重要なのは、誰が言ったからではなく、何が言われたかである」とは、中世の聖なる神学者聖トーマス・アクイナスの言葉を思い出している。そこで、まず佐野さんの文章をそのまま引用してみよう。
「近頃は、犬の散歩に犬を抱っこしてゆく人が居るそうです。
あー地球はほろびる。生命体から本能を奪えばほろびる。人間は欲は上昇するが、本能はほとんど死に体である。本能の中に倫理を含むことが、動物と人間を区別したのだ。欲望は権利ではない。自分の子供が欲しいために他人の腹を借りたりするのは犯罪以上のものだ。そして欲望は金が解決する。
人類はほろびる」
断っておくが、われわれの用語法では、動物は本能によって生きるが、人間は動物と違い、単なる本能ではなく、本性に従って生きるという。つまり、理性と自由を備えた人格である人間は、理性の判断(良心)に従って本能や欲望をコントロールして生きるという。こうした用語の多少の違いはあるものの、人間の倫理性を指摘しているから、同じ内容の主張だと理解してよいだろう。
ところで、佐野さんは、欲望を権利と取り違えた「代理母」の問題を例に挙げて、「犯罪以上のものである」と厳しく非難するが、子どもが欲しいという全く利己的な欲望を満たすために、試験管ベービーだの精子銀行などに走り、子どもは欲しくないという欲望のために中絶などの非行に及ぶ風潮を見過ごしてはならない。神のご計画に従い、子どもの幸せと人類発展のために、正しく結ばれた夫婦の愛の結晶として子どもを生み育てるのが理性の命じるところではないのか。結婚以外に、子どもをもうける権利はない。
また、真の夫婦愛のない不毛の結婚を試みる風潮もますます盛んだ。試験結婚や同棲、果ては同性婚を権利と主張する人々は後を絶たない。こうして社会の細胞であり生活の基盤である結婚と家庭が人間の欲望の前に脅かされていく。
単なる欲望を権利でもあるかのように主張する傾向は他にもある。最も顕著なその例は金銭欲(所有欲)の問題である。すなわち、私有財産権は絶対であり、如何なる制限も加えるべきではないという主張である。しかし、私有財産権は無制限ではない。なぜなら、私有財産権の前提として、地上の富は人類共有の遺産であって、全人類が共有して分かち合わなければならないという大原則があるのである。従って、私有財産権はこの大原則によって制限されなければならないのである。
このほか、今や長足の発達を続ける科学・技術の分野でも、欲望を権利と取り違える誘惑のあることを前教皇ヨハネ・パウロⅡ世は指摘されたことがある。教皇は来日の折、広島で行われた講演で言われた「科学・技術の三つの誘惑」である。
第一の誘惑は「それ自体が目的化した、技術の発達を追求する誘惑」である。それは特に生命科学に言われることで、受精卵の乱用や中絶胎児の使用などがあり、クローン人間さえ作りかねない。技術的に可能なことは倫理に反してでも必ず実行しなければならないと考えている。第二の誘惑は、「技術の発達を、利潤あるいはとどまる所を知らない経済的拡張の論理に基づく経済的有用性に従属させること」である。それは「所有のイデオロギー」に奉仕し、経済侵略を助長して戦争の原因を作ることにつながる。そして第三の誘惑は、科学・技術が軍事目的に奉仕する誘惑である。広島・長崎の原子爆弾はその象徴である。科学・技術にも、人間性を侵す権利はない。
要するに、倫理に反して欲望を遂げるなら、人類は亡びる。欲望は人間性を守るための権利ではないのである。