“小西行長 見直し進む”

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“小西行長 見直し進む”

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/03/15/ 16:14]

いささか旧聞に属するが、さる1月14日の朝日新聞文化欄に表記の一文が載った。詳しくは、「卑劣のイメージのキリシタン大名 小西行長 見直し進む」であり、小見出しには「寺社弾圧 尾ひれつき伝承」とある。

従来、キリシタン時代の宣教活動の中で「寺社の破壊や焼き打ち」があったかのような誤解や偏見が見られたが、どうやら小西行長にもその領国宇土で寺社弾圧があったという伝承があったらしい。その見直しが今行われているというニュースは朗報である。件の新聞記事は次のように始まる。

「豊臣秀吉の家臣で、関ヶ原で敗れ刑死したキリシタン大名、小西行長(1558-1600)の人物像が大きく転換している。石田三成と並ぶ実務派で、朝鮮出兵では外交交渉を担ったが、勇敢な加藤清正とは対照的に卑劣な武将として描かれることが多かった。だが近年、領国だった熊本県内で研究が進み、伝承や逸話の多くが事実とは思えないことが分かって来た」とある。

その一例として、「仏教や神道を弾圧し寺社を焼いた」という伝承があることについて、次のように述べられている。

「この伝承は正確ではなかったようだ。市史編纂のため、地元にほとんど残っていない行長の資料を全国に探すと、578点も見つかった。それをもとに07年に刊行した市史は

『寺社破壊があったとしても、キリスト教信仰にもとづいて強行されたとは考え難い』と記した。執筆した吉村豊雄熊本大教授は『行長は豊臣政権の高級官僚であり、あまり地元にいることができず、支配態勢の整備を急いだ。地域の既成勢力である寺社に対しても厳しい姿勢で臨み、検地などで経済基盤を失った寺社があったのも確かだろう。しかし、キリシタンだから焼いたといった伝承は尾ひれのついた話だ』と説明する」。

さらに指摘する。「キリシタン史が専門の五野井隆史東京大名誉教授によると、行長が熊本県南部の領地を与えられる前年の1587年、秀吉はキリシタン禁教令(伴天連追放令)を出しており、それに反して宗教的な行動を起こすことは考えられないという。『寺社の破壊があったとしても、行長がキリシタンだったからではなく、その寺社が反対勢力だったからだ』と指摘する」。

要するに、行長による寺社の破壊や焼き打ちはなかったということである。ではなぜ、行長はしてもいない神社仏閣破壊の濡れ衣を着せられたのだろうか。上記新聞記事でも紹介されている島津亮二著『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像―』(八木書店・2010)はその辺りの事情を解説している。「関ヶ原の敗軍の将として抹殺されたはずの資料を原本に当たり徹底調査、『つくられた行長』の虚像を覆す」として編まれたこの本は、その終章において、行長の人物や業績にいついての負のイメージは、一つにはキリスト教禁教の影響であって、「すでに17世紀初頭には行長の末路を仏神の罰とする理解があった。時代が進みキリスト教禁教が徹底されるにしたがって、こうした行長評が寺社サイドから喧伝されたことは容易に想像できる」と述べる。もう一つには、日本帝国主義の勃興期において、好戦派として「神格化されていく加藤清正の対立軸として(講和派の)行長が語られたことである」と明記している。そして、江戸時代前期には、「行長豪勇にして、機警あり、好んで兵書を読み、策略に長ぜり」(小瀬甫庵『太閤記』)などと、その才能は高く評価されていたと著者はいう。

周知の通り、行長の父隆佐(立佐)は1550年、日比屋了珪の紹介状により上京したザビエルに宿を提供した人であり、1560年頃に小西親子は洗礼を受けたと言われる。幼少のころからイエズス会宣教師の薫陶を受けた行長は、その後も、宣教師たちとの交流によってその信仰を深めた。行長は生涯そのキリシタン信仰に忠実に留まり、関ヶ原に敗れた時もキリシタンであるがゆえに自害することなく、屈辱の死を甘んじて受けた。

一方、秀吉の家臣として、また宇土藩の領主として忠実にその使命を全うした武将であった。遠藤氏は信仰と政治を両立させた行長の姿勢を秀吉に対する「面従腹背」であると強調しているが(『鉄の首枷』)、むしろ、行長の姿勢は今日でいう「政教分離」(政治と宗教の区別とその正常な関係)を、戦乱の続く封建時代に彼なりに生きた姿ではなかったかと思う。秀吉もそれを認めて上で行長父子を重用し、政治に介入しない限りキリスト教を迫害する意思はなかった。その点、キリスト教全面排除を貫いた徳川幕府とは異なる。ただし、政教分離の原則が確立されていなかった当時、政教を分離し、それを調和させて生きることの難しさは今日以上で、わたしたちの想像を絶するものであったはずだ。それでも勇気をもって生きたキリシタン大名小西行長の生涯は、世俗に生きてその使命を果たす信徒の姿そのものだったのではないかと思う。