自殺防止にはキリスト教が一番
カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/05/01/ 00:00]
東日本大震災はあまりにも衝撃的であった。日本人がひたすら信じてきた「成長神話」も、それを支えてきた科学技術も、自然の猛威の前に無力を証明してしまった。この惨事を目のあたりにして、山積していた日本の課題が忘れ去られてしまった。
しかし、課題は残っている。それらの課題の中の最大のものの一つは「自殺問題」であろう。東日本大震災の死者は行方不明者を含めて2万8千人に迫るとされ、それも一回きりであるが、年間自殺者数はここ十3年、3万人を超えているのである。この問題を重視して、その対策に知恵を絞り、行動を起こそうとする人々は大勢いる。わたしはこれらの善意の人々の取り組を高く評価するものであるが、同時に、何か一つ足りないものがあるではないかと思っている。足りないものとは「生きる意味と目的」に関する根本的な価値観である。これがなければ、「無意味に生きよ」とは、正直、言えないのではないか。その意味で、根源的な生きる意味と目的を説くキリスト教は一番の自殺対策であると考える。
『カトリック教会のカテキズム』の教えをまず聞こう。
「一人ひとりの人間は、神から授けられた自分のいのちについて、神の前に責任を負っています。神だけが、人間のいのちの最高の主権者です。わたしたちは、このいのちを、感謝のうちにいただき、神の栄光とわたしたちの救いのために保たなければなりません。わたしたちは、神から委託されたいのちの管理者であって、所有主ではありません。わたしたちはいのちを自分の意のままにはできないのです」(n.2280―筆者訳)。
人間のいのちは「神からのたまもの」であって、従って、人間の勝手にできない預かりものであるという教えは、自分の子を「神からの授かりもの」と考えてきた日本人には通じるところがあると思う。日本人だけではない。いのちの神秘を実感する世界中の人が信じて疑わないところである。しかし、近現代の物質文明の中で、人間はいのちの神秘を忘れて傲慢になり、あたかも自分たちの都合によってどうにでもできるものと勘違いしてしまった。だから、自殺防止の第一点は、一人ひとりの人間のいのちが神のものであるという確固たる信念を取り戻すことでなければならない。
次に、『カトリック教会のカテキズム』は自殺の悪性について次のように述べる。
「自殺は、自分のいのちを守り維持しようとする人間の自然の傾向に反します。それは正しい自己愛とは正反対のものです。また、隣人愛にも背くものです。なぜなら、わたしたちは家族・国民・人類社会に対する義務を負っていますが、自殺はこの連帯のきずなを不当に破るものだからです。自殺は生ける神への愛に反するものです」(n.2281)。
これを私流に言い直せば、次のようになる。故意の自殺は、まず神の愛への違反である。神は人間をご自分の似姿に造られ、神の至福のいのちに結ばれて生きるようにと望まれた。自分のいのちを守り維持しようとする人間の自然の傾向は、人間の本性に刻まれた神の意志なのである。自殺はこの神の愛に違反し、いのちに対する神の至高の主権を侵すものである。それゆえ、キリスト者は心して自殺を罪としてこれを避けてきた。薩摩の殉教者・福者レオ七衛門は武士であった。キリシタンとして処刑される時、勧められる切腹を断り、武士としては不名誉なことであったが、公衆の前で斬首されることを望み、そのようにしていのちをささげた。
自殺はまた、隣人への愛の義務からの逃避であり、隣人愛の拒否である。神は人間を社会的な存在として造り、各レベルの共同体の中で愛し愛される連帯のきずなを生きるように使命を与えられたが、自殺はこれに違反するわけである。隣人の迷惑になると思われるような事情に置かれたとしても、周りの人の世話を感謝して受けながら、不自由を耐え忍ぶことも隣人愛の一種であることを忘れずに生き抜かなければならない。
最後に、自殺は自己愛に反する。キリストは、「自分のいのちを救おうと望む者は、それを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを得る」(マタイ25)と言われたが、これは自殺の勧めではない。「人間は、自分を純粋に与えてはじめて、完全に自分自身を見いだせることを表わしている」(現代世界憲章24)。本当の自己愛は、神のご意思に従ってお己を尽くすことの中にある。なぜなら、そこにこそ、神の誉れがあり、人間の救いがあるからである。
人生には様々な想定外の出来事が起こる。東日本大震災だけが想定外なのではない。どんな境遇が待っていようとも、またどんなに苦しくても、自分のいのちを大切にして、神への愛のため、また隣人への愛のために、自分の都合を捨てて生き抜かなければならない。人となった神の子キリストは、わたしたちの悩み苦しみを共にして言われた。「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11,28)。