来日した、ただ一人の教皇の列福

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来日した、ただ一人の教皇の列福

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/05/15/ 00:00]

第264代教皇ヨハネ・パウロⅡ世(在位1978―2005)は、予定通り、5月1日(日)、サンピエトロ広場で教皇ベネディクト16世により「福者」の列に加えられた。こうして、ヨハネ・パウロⅡ世は全世界の祭壇上で公式に崇敬されることになった。

ヨハネ・パウロⅡ世といえば、世界的にはポーランド人初の教皇であり、信教の自由を守るため共産主義と闘って東欧の解放に貢献した教皇として名高いが、われわれ日本人にとっては日本を訪れたただ一人の教皇として忘れることのできない方である。

もとより、聖ペトロに始まる歴代教皇にとって、極東の日本も宣教すべき国々の中に含まれていた。主キリストは復活の後、天にお帰りになる直前に、弟子たちに言われた。「聖霊があなたがたの上に降るとき、あなたがたは力を受けて、エルサレムと全ユダヤとサマリア、および地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行録1,8)。「地の果て」の中に極東の日本も想定しておられたことは想像に難くない。しかし、教皇の意識の中に「日本」という国がはっきりと現れたのは、恐らく聖フランシスコ・ザビエルが初めて日本に宣教の足を伸ばした16世紀であったことは確かである。当時の教皇パウロ3世は1539年、アジアの宣教保護権を持つポルトガル王ジョアン3世の願いにより、ザビエルらイエズス会会員をアジアに派遣したのであった。

その後、歴代の教皇は日本を忘れることはなかった。たとえば、教皇クレメンス11世は1703年、ローマ教区司祭ジョバンニ・バッチスタ・シドッチ神父を厳しいキリシタン禁制の敷かれた日本に派遣し、宣教再開の道を探った。パリ外国宣教会によって日本宣教が再開されると、教皇グレゴリオ16世は1846年、日本代牧区を復活し、フォルカード神父を教区長に任命した。そして教皇ピオ9世は1862年、日本の宣教を支援するかのように長崎の殉教者26人を列聖した。1919年に教皇ベネディクト15世は初めて日本に教皇使節を常駐させることにしてペトロ・フマゾニ・ビオンディ大司教を任命した。そして1927年には教皇ピオ11世が早坂久之助神父を初の邦人司教として長崎司教に任命した。1942年、教皇ピオ12世は駐バチカン全権公使として原田健氏を迎えてバチカン市国と日本との正式の外交関係が開かれた。

このように、歴代の教皇は世界中の教会や国々への司牧・宣教について最高責任を取る中で、当然日本に対する配慮を怠ることはなかったが、自ら日本を訪れ、牧者としての愛をじかに見せてくれたのはヨハネ・パウロⅡ世ただ一人である。教皇訪日のあらましはすでにわたしのブログで紹介したとおり、ヨハネ・パウロⅡ世が示した日本への思いには格別のものがあった。何よりも訪日の3カ月も前から日本語の特訓を始め、たった三日半の訪日日程の中で20回にも及ぶメッセージを全部日本語でこなしたあたり、ただただ驚嘆するのみであった。訪日後の教皇は日本に会うたびに日本語で「神に感謝」を連発していた。

ヨハネ・パウロ2世は神話の国、神仏習合の国である日本の精神文化に対して心からの敬意を表明された。神道、仏教、新宗教など各宗教界から30人が参加した東京での「諸宗教代表者の会」のことが思い出される。そのメッセージの中で、この30人のほとんどがローマを訪れ、すでに教皇に出会った人々であり、「わたしはその返礼に来た」と言われたのも記憶に残る。教皇はまた、後日わたしたち司教たちに、「先進工業国である日本の人々が、教皇訪日にどのような反応を示すかに注目していた」と語られたが、多くの日本人が示した教皇への姿勢に確かな手ごたえを感じられたようであった。

今、日本を愛したこの教皇が列福され、父なる神のみ前で日本と日本人のために熱い思いで取りなしてくださることをわたしは信じて疑わない。東日本大震災のことも当然見ておられるであろう。これからの日本がどのような道を歩み、日本人がどのように生きて行くかについても注目してくださっているであろう。この大震災を機会に、日本のわれわれが物質文明に対する執着から解放され、精神的かつ霊的な価値を一層大切にして、経済大国から文化大国への大変身を成し遂げるよう、わたしは新福者・ヨハネ・パウロⅡ世の取り次ぎを切に祈るものである。