人は神なしには生きられない

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 人は神なしには生きられない

人は神なしには生きられない

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/06/25/ 00:00]

人は神なしには生きられない。人間は一人ひとり、創造主なる神によって造られ、生かされているからである。にもかかわらず、多くの人が神を無視し、あるいは否定して、自分の力で生きているかのように勝手に生きている。

二千年近く前のギリシャのアテネでも、今の日本のように、知的傲慢を生きている人々は神を否定していたが、一般の貧しい人々は心の中で神を感じながらも、神を知らず、偶像をまつったりしていた。「パウロは、アテネで、この町が偶像であふれているのを見て、心が憤りに燃えるのを感じた」(使徒言行録17,16)のであった。そして、アレオパゴスで人々に語った。

「アテネの人々よ、わたしはあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、わたしは、あなた方の拝むさまざまな物を、つらつら眺めながら歩いていると、『知られざる神に』と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました。わたしはあなた方が知らずに拝んでいるものを、今、あなた方に告げ知らせましょう。この世界と、その中の万物をお造りになった神は、天と地の主ですから、人間の手で造られた宮殿などにはお住みになりません。また、何が足りないことでもあるかのように、人間の手によって仕えられる必要もありません。神はすべての人々に、命と息と万物を与えてくださった方だからです。神は一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられません。

 『わたしたちは神のうちに生き、動き、存在する』

のです。あなた方のある詩人たちも、

 『わたしたちもまた、その子孫である』

と言っているとおりです」(使徒言行録17,22-28)。

二千年近く前の聖パウロのこの言葉は、あたかも21世紀の日本の人々に話しているかのような錯覚を覚える。パウロはこのように話してから、さらに続けて、人類の救いのために死んで復活されたイエス・キリストのことを宣言して言う。

「“わたしたちは神の子孫ですから、神なるものを、人間の技術や思惑によって造った、金や銀や石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神は、このような無知の時代を見逃してこられましたが、今は、どこにいる人でもみな悔い改めるようにと、命じておられます。神は、お定めになった一人の方によって、義をもってこの世を裁くための日をお決めになりました。そして、その方を死者の中から復活させることによって、すべての人にこのことの確証を与えてくださったのです”。

死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ある者たちは、「そのことは、いずれまた聞こう」と言った。そこで、パウロは、彼らの中から出ていった。しかし、彼に従って信仰に入った者も、いく人かいた。その中には、アレオパゴスの一員だったディオニシオや、ダマリスという婦人、その他の人々がいた」(使徒言行録17,29-34)。

パウロの言葉を聞いたアテネの人々の反応は。今日の日本人の反応といってもよいのではないか。インテリをはじめ大半の人々がキリスト教を無視し、一部の人が好意を示し、そしてごく一部人がキリストを信じている。

そうしたさまざまな反応にもかかわらず、すべての人が神によって造られ、生かされていることに変わりはない。しかし、この世に死んでもなお永遠のいのちに生きるためには、キリストを信じる必要にも変わりがない。多くの日本人がお金を頼みとし、科学・技術に期待しているが、それらはこの世に生きるための手段であって、人間が最終的に求める永遠の救いには何の役にも立たない。たとえ巨万の富を獲得し、御殿に住んでぜいたくを極めても、死によってすべてを失うからであり、また、しばしば永遠のいのちのためには障害になる恐れもあるからである。聖書はつとに警告している。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、何の益になろうか」(マタイ16,26)。

だから、死んで復活された方、つまり死に勝利したキリストだけが人間の救いであり、世界の完成であって、これが神の永遠のご計画である。要するに、人は神なしには生きられないのである。