増殖するブラック企業の恐怖

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 増殖するブラック企業の恐怖

増殖するブラック企業の恐怖

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/06/10/ 00:00]

先ごろ「ブラック企業」なるものの存在を知って大変驚いた。「働いても働いても貧しくなる」ワーキング・プア・非正規雇用が騒がれて久しいが、“正社員”として採用しておきながらその大半を使い捨てにするブラック企業とは何か。

『人間らしい働き方が消えていく――待ったなしの改革とは』と題する『世界』誌5月号の特集は、「そもそも私たちは“景気回復”のために働くのではない。ディーセント・ワークとは、充実して暮らしていける賃金と安定した雇用環境のもとで、誇りを持ち、人間らしく働くことにほかならぬ」と述べ、『現実は真逆の方向に向かって再び動き出している』として、労働環境を取り巻く問題について八つの論文を掲載している。その最後の論文が、今野晴貴氏の『ブラック企業は日本の未来を食いつぶす』という記事である。若者の労働問題に取り組むNPO法人「POSSE」の創立者である今野さんの言葉は信用に値しようが、その書き出しはこうである。

「“ブラック企業”という言葉をご存知だろうか。かつては“暴力団のフロント企業”という意味で使われた言葉である。今は違う。若者の間で急速に普及し、“違法労働をさせる企業”という意味で用いられる。特に就職活動生の間では、非常に恐れられている。ブラック企業は、大卒を大量に“正社員”として採用するにもかかわらず、数年でやめさせてしまうからである」と述べ、「そのうえ、うつ病や、過労死・過労自殺に追い込まれる事例が後を絶たない」と書く。

この恐ろしいブラック企業が今や世間でもてはやされる成長企業の間に増殖しているという驚くべき実態を次のように報告する。

「若者を使いつぶすこうした企業は、主に若者や大学新卒の労働市場で急速な広がりを見せている。大手居酒屋チェーン店“ワタミ”での過労自殺事件や、大手IT企業での自殺、うつ病の蔓延…。大手衣料品量販チェーン店“ユニクロ”でも、過重労働などから、入社後三年で、およそ半数が辞めているという」

かつて19世紀の産業革命において、多くの賃金労働者が低賃金と過重労働によって奴隷化されたと言われ、一世紀以上の年月を経てようやく改善されたと思われたが、21世紀になって労働者の奴隷化が再現したとは何ということだろう。しかし、世界誌の指摘に待つまでもなく、善意の国民がこぞって奮起して世論を盛り上げると同時に、政府や労働組合の尻を叩く必要があるのではないか。その前提となる価値観、すなわち人間活動(働くこと)の究極の意義と働く人・労働者の基本的人権について、第2バチカン公会議のいうところを次に紹介しておこう。

「人間活動が人間から出るように、それは人間に向かっている。人間は活動することによって物と社会を変えるだけでなく、自分自身を完成させる。人間は多くのことを学び、能力を養い、自分の外に、そして自分の上に出る。正しく理解するならば、このような成長は外的な富の蓄積より価値がある。人間の価値はその人の持ち物によるのではなく、その人自体によるのである。…したがって、人間活動の規則は次のようなものである。すなわち人間活動は神の計画と意志に基づいて人類の真の福祉に合致し、また個人および社会人としての人間に自分の召命を欠けるところなく追求し実現することをゆるすものでなければならない」(現代世界憲章35)。

「労働は、自力によるものも、雇用によるものも、直接に人間から出るものである。すなわち、人間は自然物に自分の刻印をしるし、それを自分の意志に従わせる。人間は普通、労働によって自分と家族との生活を維持し、兄弟たちと結ばれ、これに仕える。また労働によって、真実の愛を実践し、神の創造の完成に協力することができる。…これらのことから、忠実に労働する義務と権利とが各人に生ずるのである。社会は国民が十分な仕事の機会を見いだすことができるように、社会の具体的状況に応じて、その立場から、国民を助けなければならない。さらに労働の報酬は、各自の任務と生産性、企業の状況と共通善を考慮したうえで、本人とその家族に物質的・社会的・文化的・精神的生活をふさわしく営むことのできる手段を保障するものでなければならない。

一般に、経済活動は多くの人間の共同によるものであるから、働く人々のだれかの不利になるような経済活動を組織し規制することは不正であり非人間的である。しかし、働く者がある意味で自分の仕事に隷属させられるようなことが、今日においてもしばしば起こっている。このことは、いわゆる経済法則によって決して正当化されるものではない。…働く者は正しい責任感に基づいて自分の時間と労力を仕事の注ぎ込なければならないが、

家庭・文化・社会・宗教生活を営むためにも、十分な休息と余暇が働く者のすべてに与えられなければならない…」(同上67)。

要するに、人間こそ、労働の主体であり目的であって、したがって、労働は人間のためであって、人間が労働のためにあるのではない(『カトリック教会のカテキズム』2428参照)。