人間の真実と幸福はどこに?
カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/09/25/ 00:00]
どのような形であれ、幸福を求める人間は「神を渇望する」存在であると言えよう。真の幸福は神のうちにのみあるからである。問題は、神を求めていながら神を知らないことであり、自分が求める幸福が神のうちにあることを知らないことである。
『カトリック教会のカテキズム』は第一部の冒頭で、神を渇望する人間について次のように述べる。
「人間の心には神への渇望が刻まれている。人間は神によって神のために造られたからである。神は人間を絶えずご自分に引き寄せておられる。また、人間が求めてやまない真理と幸福は神のうちにしか見出すことができない」(カテキズムn.27)。
カテキズムはここで第2バチカン公会議の言葉を引用する。
「人間の尊厳のもっとも崇高な理由は人間が神との交わりに招かれていることにある。神が人間に与えた神との対話への招きは、人間の存在と共に始まった。なぜなら、もしも人間が存在するとすれば、それは神が人間を愛によって愛のために造られたからであり、絶えず人間に存在を与えているからである。人間が自由に神の愛を認めて自らを創造主に委ねるのでなければ、人間は真理に従って完全に生きることができない」(同上)。
カテキズムはさらに、人間は宗教的存在であり、そのあかしは普遍的であることを強調して言う。
「人間は、人類史の中で今日まで、それぞれの信仰や宗教的行動(祈り、いけにえ、礼拝、瞑想その他)により、多様な仕方で、神探究を行ってきた。それらの行動が意味するところはたとえ曖昧であったとしても、これらの表現形式は、人間は“宗教的存在”であると言えるほど普遍的である)(n.28)。
ここでカテキズムは聖書を引用している。
「神は一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見出すでしょう。事実、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『わたしたちは神のうちに生き、動き、存在する』(前6世紀のエピメニデスの詩)のです」(使徒言行録17,26-28) 。
しかし、人間は神探究に常に熱心であったわけではない。むしろその逆の態度が多いのではないか。カテキズムは指摘する。
「けれども、人間を神に結び付けるこの親密で生きたきずなは忘れられ、軽視され、そして人間から投げ捨てられることさえ可能である。これらの態度の原因は極めて多様であり得る。すなわち、世の中の悪に対する反発、宗教についての無知や無関心、この世の思い煩いや富の誘惑、信仰者の悪い模範、宗教に敵対する風潮、そして遂には、神を恐れて神の前から身を隠し、神の招きから逃げようとする罪深い人間の態度がある」(n.29).
続けてカテキズムは、神が人間を見捨てず、絶えず人間に呼びかけておられることを強調し、神に立ち戻ることの重要性を指摘する。
「“主を求める者よ、心から喜べ”(詩篇105,3)。たとえ人間が神を忘れ、あるいは反抗するとしても、人間が、生きて幸福を得られるために、神を呼び求めるよう、神は絶えずすべての人に呼び掛けておられる。しかし、この神探究は、人間に、神を知ろうとする努力、意志の正しさ、“正直な心構え”、さらには神探究の道を示す他の人々の模範を必要とする」(n.30)。
ここでカテキズムは聖アウグスチノを次のように引用する。
「偉大なるかな、主よ、まことにほむべきかな。あなたの力は大きく、その知恵は計り知れない。しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一部として、あなたをたたえようとします。それは、自分の死すべき運命を身に負い、自分の罪のしるしと、あなたが高ぶる者を退けられることのしるしを身に負ってさまよう人間です。それにもかかわらず、人間は小さいながらも被造物の一つの分として、あなたをたたえようとするのです。喜んでたたえずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」(告白録1-1-1)。