規範なき道徳教育は無意味
カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/10/25/ 00:00]
去る9月18日の朝日新聞は、文部科学省が来春、「心のノート」の改訂を企画していると、次のように報じている。「来春、小中学校に配る文部科学省の道徳教材「心のノート」の改定版には、多くの偉人伝が掲載されそうだ。子どもが実在の人物を自分に置き換えて考えることができるというが、生き方の押しつけを懸念する声もある」と。
道徳教育において「押しつけは禁物である」という意見にわたしは大反対である。なぜなら、道徳教育自体がもともと押し付けだからである。人生の道である道徳は、人生の究極の目的に達するために決められた道であって、人間の移り代わる感情や気持ちによって勝手に変えられるものではない。
周知の通り、神の愛によって造られた人間のいのちは「召命」でって、人生にはこの召命に答えて生きる使命があり、責任がある。ここにいう使命とは、神を信じ、神を愛して永遠の至福にあずかることである。神を愛するとは、すなわち人を愛することである。そして人を愛するとは、客観的な真理に基づき、愛に駆られて、自由意志をもって正義を擁護し実現することである。そして正義とは人々を幸せにすることに他ならない。
上記の朝日新聞の記事を書いた記者は最後に、ある大学教授が述べた次の言葉を紹介している。「子どもと教師が生き方についてともに悩み、意見をぶつけ合う道徳授業の本質を忘れてはいけない」と。とんでもない話だ。いじめや人殺し、虐待や暴力など、道徳の乱れは道徳規範がきちんと教えられなかったことの起因している。それは、道徳を教える教師が子どもと一緒になって悩み、迷っているからに違いない。だから、子どもたちに道徳規範を教えてその良心を形成し、正しい判断をして実行するようにするのが道徳教育であって、規範を教えない道徳教育は無意味であるばかりか、有害ですらあり得る。
それに、道徳規範を教えることは子どもの自由を縛ることではない。むしろ、自由を助けるのである。なぜなら、自由とは、道徳規範に助けられながら、具体的行動において善悪を判断し、自分の意志で良心の判断を実行することにあるからである。残念なことに、人間は自分の良心の判断に反して行動する自由もある。しかし、良心に反する自由は、実は自由の乱用であって、人格の完成に反して人間を堕落させる偽りの自由である。勝手に人を殺しておいて自分は自由であるとうそぶくなど、世間が許すはずもない。
そこで提案がある。正しい道徳規範をどこに求めればよいかについての提案である。その第一は、正しい道徳規範は「神の十戒」にあるということである。旧約聖書にある通り、神の選民をエジプトとの奴隷から解放して導き出したモーセは、シナイ山において神から「十の言葉」を授かる。これが十戒であって、人間本来の良心の声を正し、明らかにするものであって、キリストの啓示と模範によって完成された。カトリック教会は今日も忠実に神の十戒を教え、解説している。中でも、社会生活を律する「教会の社会教説」は現代人必読の道徳規範となっている。
しかし、公立学校においては特定の宗教教育はできないとなれば、どうしたらよいのだろう。そこで、もう一つの提案である。それは、1948年12月10日、国連総会で採択された「世界人権宣言」である。これは、「すべての国が達成すべき共通の基準」となるもので、いわば人類普遍の道徳規範であって、日本国民も世界と共に生きる国際人として持つべき規範であり、世界平和に尽くす場合の目標ともなるものである。その意味で、わが国の小中学生も一度は世界人権宣言を学ぶ必要があり、したがって道徳規範として道徳の授業において教えられなければならないものである。
人間は弱く、世間の誘惑も強い。だが、一度道徳規範を学んだ者は、良心の声に忠実であろうと努力することは必定で、たとえ躓くことがあったとしても、立ち直るための目標として子どもたちを支えるに違いないのである。
なお、文部科学省が発行している「心のノート」は、提示される「偉人伝」と共に、道徳規範を学んだ子どもたちに取って有意義な副読本となるであろう。特に理想とすべき聖人・偉人を持つことは大切で、特に親から離れて自立する年頃の中学生にとって、親以外の理想の指導者をもつことは大きな励みになると言われている。