人間は大勢(おおぜい)でも、その本質は一つ

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人間は大勢(おおぜい)でも、その本質は一つ

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/11/10/ 00:00]

今日の世相を見るに、人類は、さまざまなところで、さまざまな形で、互いに分裂して相争い、殺し合いまでやっている。しかし、人間各々の本心は平和を求め、一つになることを望んでいるのではないか。ここに人間の矛盾があり、秘義がある。

では、この秘密を解くのはだれか。人間とは何かを問うこの問いに、カトリック教会は答える。例えば第2バチカン公会議の次の文章はその一つである。

「主イエズスは『われわれが一つであるように…すべての人が一つになるように』(ヨハネ17,21-22)と父に祈られたとき、人間理性が達することのできない視野を示されたのであって、三位にまします神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似がほのめかされている。この類似は、神が、そのもの自体のために望んだ、地上における唯一の被造物である人間が、みずからを純粋に与えてはじめて、完全に自分自身を見いだせることを表している」(現代世界憲章24)。

人類を救うために人間となってこの世に来られた神の子キリストは、神とその被造物である人間が何者であるかを啓示されたが、それによれば、まず、神は父と子と聖霊の三位一体の神であって、三位の尊い交わりの中で至福のいのちを生きておられる。そして人間は、神にかたどられ、神の似姿として造られて(創世記1,27参照)、神の子らとして一つになるように召されており、それはあたかも三位の神が一体であるように、人間は、その個別性においては多数であっても、その本質においては一つなのである。個人としては多様でありながら、どのようにして一体となれるのか。互いに自分を純粋に与え合って初めて一つになれるということであって、「一体」となって初めて人間は自分を発見し、真に「人間になる」というわけである。

では、「自分を純粋に与える」とは何を意味するのだろう。それは、二心なしに人のために尽くすという、キリスト教的愛を意味している。主キリストが人類の救いのために自らを完全に与えられたように、人間も互いに自分を与え合わなければならない、というのがキリストの弟子たちへの命令であった。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方がたが互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。…あなた方が互いに愛し合うこと、これをわたしはあなた方に命じる」(ヨハネ15,12/17)。

このように、人類は、三位一体の神に倣って、互いに愛し合って一つになるとき、人間が何であるかを知り、実際に本当の人間になる。これが、人類に対するキリストのメッセージであり、教会のメッセージである。

そしてもう一つ、先に引用した文章の中で、「神が、その物自体のために望んだ、地上における唯一の被造物である人間」という命題に注目したい。これは、神が人間を人間のために創造したということである。神が創造した天地万物の中で、人間だけが「目的」であって、いかなる「手段」にもなり得ないという意味である。このことはすなわち、人間は知恵と自由を備えた独立の責任ある主体であるということであって、神も人間を人格として尊重し、「わたしとあなた」の関係として人間を遇することを意味する。つまり、神と人間は互いに対話を交わす関係にあるということである。実際、啓示の歴史において、神は人間に語りかけ、神の恵みを受けて幸せになれと、人間を招かれた。そして人間は、神の呼びかけに「はい」と答えることもできれば、「ノー」と拒むこともできる自由な存在である。それゆえ、神は人間を救うのに人間の承諾を求めておられるのである。

ただし、人間のこの主体性は人間が孤立して利己主義に走ることを容認するものではない。すでに述べたように、人間は孤立した存在ではなく、常に神に生かされ、互いにも支え合って生きる社会的な存在である。だから、人間は各々、神と隣人に開かれて、互いに与え合うこと、すなわち純粋に愛し合って一つになることによって、自己を確立することができるのである。そして、この相互愛に徹する時、人間は神の子らとして神と共に永遠にその至福のいのちにあずかることになるであろう。

しかし、この至福のいのちはこの地上で準備され、死を超えた永遠の国において完成されることを忘れてはならない。神の国はキリストと共にこの世に到来しているが、それは世の終わり、すなわちキリスト再臨の時に神によって完成すると、キリストは約束された。わたしたちは互いに愛し合いながら、この希望に生きているのである。

要するに、人間は、個性を備えた人格(ペルソナ)としては大勢であり、その境遇はさまざまであっても、その本質(本性)は一つであるから、永遠の愛である神に結ばれ、互いに真の愛を生きて一つになる以外に、自己実現の道はあり得ないのである。