信仰に目覚める若者たち
カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/02/10/ 15:03]
先日の朝日新聞によると、大学一年生の16パーセントが信仰を持っている。これは、国学院大日本文化研究所の井上順孝教授らによる調査で明らかになったもので、東日本大震災以後、信仰を持つ10代の若者が急激に増えているという。
新聞は書いている。「井上教授らは1995年から11回にわたり、入学直後の大学1年生などに対し、宗教意識について調査を続けてきた。それによると、信仰を持つ学生の割合は95年には9,7%だったのに対し、2012年には16,1%まで増えた。特に東日本大震災を挟んだ10年から12年は、2年間で4,2%も増えたという。井上教授は増加の理由について次のように分析している。
「東日本大震災の影響とともに、オウム真理教事件による宗教の悪い印象が薄れたことや、仏像が注目されたり、伊勢神宮や出雲大社が人気を博したりするなどの宗教ブームも影響しているだろう」
この分析はたぶん本当だろうと思うが、しかし、信仰を持つ学生が16パーセントとはあまりにも少ないのではないか。人間は本来「宗教的存在」であって、洋の東西を問わず、全ての民族が何らかの宗教を奉じてきたからである。人間は、歴史の中で今日まで、それぞれの信仰と宗教的行動(祈り、いけにえ、礼拝、瞑想など)によって、多様な仕方で神探究を表現してきた。たとえそれらに曖昧なところがあったとしても、それらの表現形式は普遍的であり、人間は宗教的存在であるということができる。
聖パウロは、ギリシャのアレオパゴスで話しかけた。「アテネの人々よ、わたしはあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、わたしはあなた方の拝むさまざまな物をつらつら眺めながら歩いていると、『知られざる神に』と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました。わたしはあなた方が知らずに拝んでいる者を、今、あなた方に告げ知らせましょう。この世界と、その中の万物をおつくりになった神は、天と地の主ですから、人間の手で造られた宮殿などにはお住みになりません。また、何か足りないもとでもあるかのように、人間の手によって仕えられる必要もありません。神はすべての人々に、命と息と万物を与えてくださった方だからです。神は一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めれば、神を見出すでしょう。事実、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『わたしたちは神のうちに生き、動き、存在するのです』(使徒言行録17,22-28)。
しかし、“人間を神に結びつけるこの親密ないのちのきずな”は人間に忘れられ、理解されず、明らかに拒絶されることすら可能である。このような態度はさまざまな事情に起因する。世の悪に対する反発、宗教的無知や無関心、この世の思い煩いや富の誘惑、信仰者の悪い手本、宗教に敵対する風潮、遂には罪深い人間の神を恐れて身を隠し、神の前から逃げようとする態度などである。
わたしが思うに、現代日本人の無信仰や無神論は、何よりも富の誘惑と無制限の自由の追求ではないか。それでも、神は人間を招き続ける。
『主を求める者よ、心から喜べ』(詩篇105,3)。たとえ人間が神を忘れ、あるいは神を拒絶することがあったとしても、神は人間が生きて幸せになるために神を探し求めるよう、全ての人間に絶えず呼び掛けておられる。一方、人間の心には神への望みが刻まれている。なぜなら、人間は神によって、神のために造られたからである。真理も幸福も神のうちにしか見出せないのでる。
しかし、この神探究は人間に知性の懸命な努力と意志の誠実さ、“素直な心”を要求し、また同時に、神探究の道を示す他の人々の証しが必要である。したがって家庭においても学校においても、宗教を重んずる環境を整え、発達段階に応じて信仰への手ほどきをする必要がある。特に家庭における宗教教育は、公立学校で宗教教育ができない以上、極めて重要である。