政治的自由の尊重
カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/02/25/ 00:00]
「政治共同体(国家)と公権は、人間の本性に基づくものであり、したがって神の定めた秩序に基づくものであることは明白である。ただし、政治体制の決定と政府の指名は国民の自由意思に任されている」(第2バチカン公会議『現代世界憲章』74)。
これで明らかなように、政治は神が定めた自然の秩序に属し、政治参加は国民の権利であり、したがって政治活動の自由が国民に保障されなければならない。同時に、どのような政治体制を採用するか、またどんな政府を指名するかについても、国民が自由に決める権利が保障されなければならない。この点、わが国の政治体制は国民の総意によって「議会制民主主義」が採用されており、国民の自由な選挙によって選ばれた国会議員の多数決によって総理大臣が選ばれることになっている。国民はこの政治体制とその運用についてこれを尊重しなければならないのである。
Ⅰ-教会は政治参加の自由を保障する
国民の政治参加の自由は、表現の自由や信教の自由などと並んで、国民の基本的人権に属する。日本国憲法はこれらの自由を保障している。まず、憲法第11条において、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」と述べ、12条から15条にかけてその内容を説明している。最後のところで、「すべて選挙における投票の自由は、これを侵してならない」と釘を刺している。
したがって、国民に保障された政治参加の自由と権利をカトリック教会も厳しく守っている。最近、一部の聖職者が信者に対し、具体的な政治課題について一定の選択を要求しているとの噂がある。噂というのは、わたしはその実態を把握していないという意味であるが、満一、そのようなことが行われているとするならば、由々しいことであり、断じて許してはならないことである。
要するに、国民の政治活動は完全に自由でなければならず、いかなる権力もこれを侵してはならない。信仰・道徳に関する教義についても、これを信じるか否かは最終的には個人の自由に属することを認める教会は、まして複数の選択肢をもつ政治問題について、信者の自由を決して侵してはならないのである。
同時に、教会は宗教団体であり、霊的共同体であって、政治共同体ではないから、教会として直接政治に介入することは決してない。また、教会を代表する立場にある司教、司祭も、自ら公的に政治に介入することはできないし、教会の組織として政治団体を立ち上げることもない。信者も同様であって、教会の名において政治に参加することはできない。信者が政治に参加する権利と自由は、国民ないし市民としての立場からであって、あくまで国民ないし市民の名で自由に政治に参加しなければならない。第2バチカン公会議はこの微妙な違いについて警告している。「救いの計画そのものに従って、信者は教会に属する者としての自分たちに付与されている権利・義務と、人間社会の構成員として有する権利・義務とを、注意深く区別することを学ばなければならない」(教会憲章36)。
したがって、もしも司祭から政治について特定の選択を求められても、信者はこれに従う義務はない。司祭は信者の政治的自由を認め、これを尊重しなければならないのである。もしそうでなければ、司祭の政治判断に同意できない信者を教会から追い出すことになってしまう。選挙のとき、司祭が特定の候補者に投票するように強制したため、教会共同体が分裂に追い込まれた悲しい事例があったことを肝に銘じたい。
2-教会は政治を批判する
教会の守備範囲は人間の霊的秩序(分野)である。政治的秩序ではない。したがって教会が直接政治に介入することはないが、しかし、「政治倫理」については、教会は政治に介入する権利がある。政治も人間活動である以上、倫理・道徳の規制下にあるからである。第2バチカン公会議は教える。「政治権力の行使は、常に倫理秩序の限界内において、共通善を目的として、合法的に定められた、法秩序に従ってなさるベきである」(現代世界憲章74)。
だから、政治の世界で、基本的人権を侵害するなど、重大な倫理違反があれば、これを正すのは教会の義務である。だから、教会が、つまり司教や司祭が政治批判をすることがあっても、それは倫理・道徳の立場からの批判であって、政治体制の転覆をはかるようなものでないことは明らかである。信者もこのことをよく理解しなければならない。
その意味で、市民、国民の名で政治に参加するとき、信者は各々、キリスト者としての良心に基づく自分の判断で活動することが肝心である。しかし、純粋な政治問題には多様な選択肢があるから、信者の間にも政治的意見の違いがあるのは当然である。政治的立場や意見の多様性が教会内に認められなければならないのである。