表現の自由の意味と限界

表現の自由の意味と限界

カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/02/10/ 00:00]

仏週刊新聞「シャルリー・エブド」襲撃事件にちなんで、「表現の自由」は絶対なのか、あるいは制限があるのかについて議論が沸騰している。事件の詳細を知らないから、その是非に触れず、ここでは一般論として、表現の自由とは何かについて考えてみたい。

表現の自由に関するこのところの議論において一切触れられていないが、国連が1948年12月10日の総会で採択した「世界人権宣言」に基づいて作成された「市民的及び政治的権利に関する規約」(略して自由権規約)は、「生存の自由、安全、プライバシーの権利、拷問及び他の残虐な、非人道的もしくは品位を傷つける待遇から守られる権利を確認し、1976年3月23日に発効した」(国際人権規約に関する国連広報センターの文書)。これによれば、その19条において、文字通り、表現の自由について述べる。次はその全文である。

1. すべての者は、干渉されることなく意見をもつ権利を有する。

2.すべての者は、表現の自由について権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。

3. 2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがってこの権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。

(a) 他の者の権利又は信用の尊重

(b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

この文章は、「法律による」の代わりに「良心上」と言い換えれば、教会が主張してきたことのほとんど同じであり、また、表現の自由本来のモラルを政治に適用したものに他ならない。ただ、教会は「表現の自由の目的」にいついて次のように教える(メディアの自由は表現の自由と同じに理解してよい)。

「メディアを用いて情報を伝達するのは、共通善に奉仕するためである(第2バチカン公会議『広報機関に関する教令』11参照)。社会には真理、自由、正義、連帯に基づいた情報を得る権利がある」(『カトリック教会のカテキズム』2494)。

周知のとおり、すべての人間は知恵と自由を備えた人格であり、その尊厳は不可侵、この尊厳に基づく基本的人権もまた不可侵である。人間はまた社会的存在として造られており、相互の交わりと助け合いの中で成長して自らの人格を完成する。したがって、カテキズムが言うとおり、人間はすべて、常に真理を探究し、真実に基づいて自由に意見や情報を交換して正義を実現し、愛による交わりと連帯を通して一つになる。こうして、本質以外では多様な素質を持ち、境遇も異なる人間が、最終的には同じように幸せに生きるのである。

それ故、表現の自由や言論・報道の自由は、このような人間の基本的権利と深くかかわっており、個人の権利や社会の倫理的秩序を侵すいかなる自由も存在しないのである。表現の自由には一定の制限があるゆえんである。

では、思想、表現、言論、報道の自由などは、実際にどのように行使されているのであろうか。わたし自身の経験から言っても、毎日、新聞やテレビのお世話になり、また、聖書をはじめ、書籍や雑誌、周りの人々からの口コミのおかげによって生きており、またインターネットを利用して信仰道徳に関する教会の教えを発信している以上、表現や報道の恩恵を称賛せざるを得ないが、しかし、数々の嘘の報道や言論の操作を感じることも多く、あることないこと取り交ぜて人権を侵害し、名誉を傷つけ、世の中に憎悪や分裂の種をまくメディアの存在が気になる。また、偏った言論や報道に起因して所得格差が広がり、社会的弱者に不幸がしわ寄せされてもいる。最近では子どもたちまでが身近なメディアを通していじめを拡散しているという。

こうした世の中の事情を勘案するとき、表現の自由の功罪は合い半ばすると言えないか。それ故、情報の送り手(発信者)の責任は重く、そのモラルが問われている。最近では、ソーシャル・メディアの普及によって各個人もまた情報の「送り手」として責任が問われていることを忘れてはならないだろう。他方、情報の「受け手」(視聴者)もまた、賢明に情報を選択して善用し、有害なものを排除すると同時に、報道のモラルの向上にも力を尽くさなければならない。特に、子どもたちが賢い受け手となるよう教育することが肝要となる。その意味で、両親や学の教師の責任は重大である。

今回のフランスにおけるテロ事件を、表現の自由の意味と限界について問い直すよい機会としなければならない。