教皇ベネディクト16世の退位に思う
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/03/15/ 00:00]
教皇は、「わたしは繰り返し、神のみ前で自身の良心の究明をした結果、高齢のために、もはや教皇職を適正に遂行するために必要な体力が残っていないという確信に至りました」とバチカンで、3人の列聖を承認するために招集した枢機卿会議の席上語ったという。言われるまでもなく、85歳の身に教皇職の激務に耐えうるとはだれも考えることはできない。
世間では辞任の原因を何かと取りざたする者がいるようだが、たとえ教会に何かが あったとしても、それは教皇の責任ではない。ないばかりか、人類の一切の罪を一身に背負い、これを十字架上であがなったのは主キリストご自身であり、こう して得られた罪のゆるしを宣べ伝えるのが教皇の、そして教会の使命である。教皇が何らかの教会内の問題の責任を取って辞任するなど、ありえないことである。
報道によれば、教皇辞任は600年ぶりのことで異例だといわれるが、教会法典には ちゃんと教皇辞任の条項がある。1983年に公布された『カトリック新教会法典』第332条第2項に、「ローマ教皇が辞任する場合には、辞任が自由になされ、かつ正しく表明されなければ有効とはならない。ただし、なんぴとかによる受理は必要でない」とある。今回の教皇辞任は教会法に則って正しく行われたのである。
ベネディクト16世の教皇として業績について、すでに多くの肯定的な評価がもたらされており、今後さらに正確にして総合的な評価が定まっていくと思われるが、わたしは特に次の二つのことを指摘しておきたい。
第1点は、第2バチカン公会議の実施について強調されたことである。教皇に選出された翌日、2005年4月24日のミサ後のメッセージにおいて、「ペトロの後継者に固有の任務を始めるにあたり、わたしは、先任者の教皇たちの足跡に従い、また、教会の2000年の伝統を忠実に引き継ぎながら、第2バチカン公会議の実施に向けて取り組み続けるつもりであることを、はっきり宣言したいと思います」と述べられたのである。
こうして、教皇職のすべてにおいて公会議の実施に向けて全力を傾けられた。日曜日に行われる「アンゼルス」における講話では、公会議の閉幕40周年を記念して数回にわたって話され、「公会議の公文書はその価値を失っていないばかりか、ある意味で、かつてよりもよりいっそう、現代に通用する意味を持つことが明らかになってきた」と強調された(以上、『霊的講話集2005』)。昨年10月、第2バチカン公会議開幕50周年に際しては、「信仰年」を告示して、「公会議文書は、自らの価値を失うことも輝きを失うこともありません。これらの文書は、適切に読まれ、教会の聖伝の中で、教導職にとっての重要な規範文書として知られ、消化吸収される必要があります」(自発教令『ポルタ・フィデイ』)と強調され、公会議の実りとしての『カトリック教会のカテキズム』を学ぶよう勧告されたことは周知のとおりである。
信仰と理性の補完的一致の問題は、近代合理主義が最高にその猛威をふるっている現代、第2バチカン公会議の プログラムの実施とも関連して、実に重要な問題である。つまり、信仰は理性に反するとの理由で、信仰を否定しつつ、科学信仰や進歩信仰ともいえる仕方で理性の自立を強調し、世俗化の道をひた走る傾向に対して、ベネディクト16世は理性と信仰の一致を強調された。
すなわち、人間の理性はもともと神の理性への参与(participatio)であって、したがって、理性と信仰は互いに矛盾することなく一致するものであり、理性は信仰の理解を深めるために貢献し、一方、信仰は神の理性の啓示として、人間理性を補完し完成する規範となるものであることを強調された。「信仰は、理性そのものを浄化する力です。信仰は、神の視点から考えることにより、理性をその盲点から解放し、そこから理性がいっそう完全なものとなるのを助けます。信仰によって理性はいっそう効果的な仕方で働き、また、その対象をいっそうはっきりと見ることができるようになります」(回勅『神は愛』28)。
人類全体にとっても各個人にとっても、最大の根本問題は、神に立ち返ることであ る。つまり、神から離散した人類と各個人が、キリスト信仰によって神に立ち返り、その究極の目的を達することである。換言すれば、人生の道しるべである人間理性をキリスト信仰によって癒し、浄化し、完成することに他ならない。そして、これこそが第2バチカン公会議のただ一つのテーマであった。ベネディクト16世はこの一大刷新運動の先頭に立たれたのであって、この使命は新しい教皇に引き継がれなければならない。