「美しい国」と「愛の文明」
カテゴリー 折々の想い 公開 [2006/12/11/ 00:00]
安倍首相の「美しい国」という表現には正直驚いた。しかし、考えてみれば、なかなか面白い発想であり、検討に値すると思う。これに対する教会の見方は何であるかとの質問もあるので、わたしの意見を述べてみたい。
本文に入る前に、まず表題の「美」と「愛」に関する言葉の意味を整理しておこう。
神は真・善・美そのものである。すべて存在するものは、神の思い(計画)に合致している限り真理であり、善であり、美しいものである。存在するもののうち、知恵と自由を備えた独立主体はペルソナ(位格)と呼ばれ、神と天使と人間に類比的に適用される。このペルソナとペルソナとを一つに結び、共同体としてこれを完成するものは愛である。この愛し愛されるいのちの中にペルソナの真の実現と喜びと幸福がある。神は人間を愛によって愛のために造られたのである。
さて、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(新共同訳・創世記1,31)。
聖書の中の最初の書物は創世記であるが、そこには、人間と世界の始まりと共に、そのありのままの実態が述べられる。それによれば、神が6日間で創り終えた天地万物をご覧になった神は、「極めて良かった」と言って満足された。つまり、神の業は完璧で美しかったのである。
そのあと、創世記は人間の罪による堕落を告げる。醜くなったのである。それはわたしたちの現実の体験でもある。人間も世界も美しい。しかし、醜い面もあって、それはすべて人間の罪から生じたものである。そして創世記は、堕落して醜くなった人間と世界を救うために、救い主を約束される。これを「原始福音」と呼んでいる(創世記3,15参照)。そして実際、約束の救い主キリストによって人間と世界は救われ、美しくされていく。
従って、聖書全体も、教会の全使命も、美しい人づくり、美しい国作りのためであって、この人類救済の計画の中に、政治も含めた人間の全活動が組み込まれているというのが、教会の見方である。
では、教会の社会的教えは美しい国をどう表現しているか、見てみよう。
「今日、わたしたちが連帯の原理と呼ぶものが、社会・政治機構に関するキリスト教的見方の根本原理の一つであることが明らかになります。この原理は教皇レオ13世によって、しばしば「友情」という言葉で述べられていますが、この概念はすでにギリシャ哲学に見出されます。ピオ11世は、同じ意味を持つ「社会的愛」という言葉でこれに言及しています。さらに、パウロ6世はこの概念を広げて、社会問題の多くの現代的側面を網羅するようにと、「愛の文明」について語っています」(回勅『新しい課題』11)(註1)。
この「愛の文明」について、ヨハネ・パウロ2世は次のように説明している。
「教皇パウロ6世の『愛の文明』という表現は、その後教会の教えの中に取り入れられ、親しまれるようになりました。今日、愛の文明についての言及を含まない教会による、あるいは教会に関する記述を思い出すことは困難です。・・・語源的には、「文明」”civilisation”はラテン語の「市民」”civis”から来ており、すべての個人の存在の政治的次元を表しています。しかしながら「文明」という言葉のもっと深い意味は、単に政治的なものだけではありません。それはむしろ、正確には「人文主義的」なものです。文明は人間の歴史に属しています。なぜならそれは人間の霊的、道徳的必要にこたえるからです。神のかたどり、神の似姿として造られた人間は、創造主から世界をゆだねられ、さらにそれを神のかたどり、神の似姿として形作る使命を与えられています。文明が生まれるのはその使命の遂行によるもので、それは結局、「世界の人間化」以外の何ものでもありません」(『家庭への手紙』13)(註2)。
教皇のこの言葉は、余計な解説を加えるより、じっくり味わってみよう。そして、わが日本社会に「愛の文明」の花開くときが近いことを祈りたい。
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註1.
ヨハネ・パウロ2世の回勅『新しい課題』の原タイトル“Centesimus Annus”で、直訳すれば「百周年」である。これは、レオ13世の最初の社会回勅「レールム・ノヴァールム」の発布百周年を記念して1991年に発表されたヨハネ・パウロ2世の回勅である。
註2.
ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『家庭への手紙』は、1994年、国連の世界家族年にちなんで出されたもので、その拙訳はカトリック中央協議会のペトロ文庫『家庭―愛といのりのきずな―』(2005年)の後半に収録されている。