「ゆるし」を体現した人の物語
カテゴリー 折々の想い 公開 [2006/12/20/ 00:00]
ところで、罪は、自由という能力を授けられた人間の、ある意味で、宿命である。
人間を自らの似姿として創造した神は、その本質的な要素として「自由」という能力を備えるものとしてくださった。この自由あってこそ、人は神の似姿として愛することができる。しかし反面、自由であるからこそ神に「ノー」と言って反抗し、罪を犯すこともできる。「自由」という能力は両刃の剣であって、人を生かすことも殺すこともできるのだ。
しかし、神はあえて人間に自由を与えた。神の愛が無限であったからである。と同時に、その愛は「ゆるす愛」であったからである。たとえ人間が罪を犯して不幸になっても、ゆるしによって原状を回復し、愛のいのちへと救ってくださることが、そもそもの神の計画であった。だから、創世記において、人間が原罪を犯して堕落した直後、救いを約束されたのであり、そういう意味で、神は当初から、救い主キリストにおいて、キリストのために人間を創造されたといわれるのである。
キリスト者は人間がもともと罪深いものであることを知っている。人間である以上、無罪ではあり得ないとキリスト教は教えてもいる。しかし、それは悲観すべきことではない。ゆるしを信じるからである。だから、この世に罪が満ちていることは悲しい。何とかして罪をなくしたいと思い、またそのためにベストをつくす。にもかかわらず罪深い世にあって、わたしたちは希望を失わない。主の苦難と死を記念する聖金曜日の典礼で、教会は「おお幸いなる罪よ」と歌う。神の御子を救い主としてこの世にお迎えできたからである。
ところで、「罪を憎んで人を憎まず」(孔叢子)という言葉がある。これは、もともとは「犯意のある者を罰し、犯意のない者を罰さない」という意味らしいが、わが国の諺としては、文字通り「罪を憎んで罪を犯した人を憎まない」という風に理解されているようである。しかし、これはキリスト教的であるともいわれるが、実はそうでもない。これをキリスト教的に言うとすれば、「罪を憎んで罪びとを愛する」となる。この「愛」とは「ゆるす愛」であって、これがキリスト教の本質である。