「ゆるし」を体現した人の物語

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「ゆるし」を体現した人の物語

カテゴリー 折々の想い 公開 [2006/12/20/ 00:00]

生かされて。

生かされて。

 このほど、今評判になっている本、『生かされて。』を一気に読んだ(イマキュレー・イリバギザ著、PHP、2006)。十年余り前、アフリカのルアンダで吹き荒れた民族浄化の大量虐殺の時代、両親と兄弟二人を奪われた中で、肉親への愛情と共に、これに反比例するかのように繰り返し沸き起こる憎しみと復讐の情念に打ち勝って、「ゆるし」というキリスト教の恵みを文字通り身を持って体現した一人のカトリック信者の物語である。彼女が神のゆるしに与って救われたということは、彼女が真にカトリック信者としての教養を身に着けていたと同時に、本書の中で彼女自身が言うように、深く長い祈りの中で神の愛に触れたためだと思うのだが、このゆるしのゆえに、今、本当に平和であり幸せであると彼女は断言している。

 ところで、罪は、自由という能力を授けられた人間の、ある意味で、宿命である。

人間を自らの似姿として創造した神は、その本質的な要素として「自由」という能力を備えるものとしてくださった。この自由あってこそ、人は神の似姿として愛することができる。しかし反面、自由であるからこそ神に「ノー」と言って反抗し、罪を犯すこともできる。「自由」という能力は両刃の剣であって、人を生かすことも殺すこともできるのだ。

 しかし、神はあえて人間に自由を与えた。神の愛が無限であったからである。と同時に、その愛は「ゆるす愛」であったからである。たとえ人間が罪を犯して不幸になっても、ゆるしによって原状を回復し、愛のいのちへと救ってくださることが、そもそもの神の計画であった。だから、創世記において、人間が原罪を犯して堕落した直後、救いを約束されたのであり、そういう意味で、神は当初から、救い主キリストにおいて、キリストのために人間を創造されたといわれるのである。

 キリスト者は人間がもともと罪深いものであることを知っている。人間である以上、無罪ではあり得ないとキリスト教は教えてもいる。しかし、それは悲観すべきことではない。ゆるしを信じるからである。だから、この世に罪が満ちていることは悲しい。何とかして罪をなくしたいと思い、またそのためにベストをつくす。にもかかわらず罪深い世にあって、わたしたちは希望を失わない。主の苦難と死を記念する聖金曜日の典礼で、教会は「おお幸いなる罪よ」と歌う。神の御子を救い主としてこの世にお迎えできたからである。

 ところで、「罪を憎んで人を憎まず」(孔叢子)という言葉がある。これは、もともとは「犯意のある者を罰し、犯意のない者を罰さない」という意味らしいが、わが国の諺としては、文字通り「罪を憎んで罪を犯した人を憎まない」という風に理解されているようである。しかし、これはキリスト教的であるともいわれるが、実はそうでもない。これをキリスト教的に言うとすれば、「罪を憎んで罪びとを愛する」となる。この「愛」とは「ゆるす愛」であって、これがキリスト教の本質である。