教養と実学は教育の両輪
カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/01/22/ 00:00]
高校における必修科目の未履修問題はさまざまな波紋を呼び、さまざまな議論を巻き起した。その中の一つは「教養教育」の問題であった。多くの人が一般教養の低下を嘆き、その再生を強調していたが、中には、実学の刷新と強化を訴えるものもあった。たとえば、教育再生会議のメンバーでもある川勝平太氏は述べる。「美しい国づくりの基礎は、実践的な学問でなければならないであろう。すなわち「新しい実学」がいるのである」(中央公論1月号『日本社会の目標喪失が教育を壊した』)。
そこで、わたしなりに、「教養と実学」について整理しておきたいと思う。
人間らしく生きる知恵と力
人間らしく生きるためには「知恵」と「力」が必要である。人間らしく生きるためにどうすればよいかを知っていたとしても、それを生かして実践する力がなければ、無意味である。逆に、実践するための力はあっても、それを人間らしく生かす知恵がなければ、乱用の恐れは大きい。
かつて、戦後アメリカの名説教家にフルトン・シーン大司教は、「アシジのフランシスコの手に握られた原子爆弾よりも、ギャングの手に握られたピストルが危険である」と言ったという。科学や技術を正しく使うための知恵を身に着けていれば、原子力やバイオ技術などはいのちや平和に役立てることはあっても、これを脅かす恐れはないということだろう。
ここにいう知恵とは教養の別名であり、力とは知識や技術などの実学を意味しよう。そしてこの二つは人間教育における車の両輪であって、二者択一の問題ではない。
真の教養とは
わたしの記憶が正しければ、かつて読んだ『余暇―文化の基礎―』という小冊子の中で、著者の哲学者ヨゼフ・ピーパーは、「真の教養とは己と世界を知ることである」と書いていた。自分が何であり、どこから来てどこへ行くのか、また、この世界とは何であり、その目的は何であるかを知らなければ、人間らしく生きることはできないから、ピーパーの言葉はけだし名言であると思う。
そういえば、哲学の父とも呼ばれるソクラテスも、「汝、自らを知れ」と弟子に教え、真理を愛してこれを探究する誠実な学問の態度を奨励したという。真理の探究をなおざりにし、もっぱら己の博識を名声と金儲けの手段としていたソフィストたちを批判し、博識より、英知の愛(Philosophia、西周は哲学と訳した)を勧めたのである。
英語など欧米語では教養はカルチャーであり、カルチャーは文化とも訳される。家庭においても学校においても、文化の継承が教育の本領である。その上、文化を生かす前提は宗教であると教会は確信している。聖書は言う。「主を畏れることは知恵の初めである」(箴言1,7;詩篇111,10)。従って、真の教養とは宗教教育を基本とした文化の継承によって身に着けるものであることがはっきりする。そして教養はその人の良心を形成し、思想となり価値観となって、その生き方や行動を方向付け、規定することになる。
現代に必要な実学とは
高度に文明化した現代において、どのような学問や技術を身に着ければ、ちゃんとした大人として生きていけるだろうか。これについて、わたしは専門家ではないから、専門家たちの議論に任せよう。
ただ、ある論者も指摘するとおり、「豊かな国づくり」から「美しい国づくり」へと看板は変えても、相変わらず景気回復などと経済至上主義の旗を掲げている以上、川又氏の言葉とも相俟って、教育再生は実学偏重になる心配なしとしない。