五島最古の江袋教会焼失

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五島最古の江袋教会焼失

カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/03/20/ 00:00]

トマス島田喜蔵神父

トマス島田喜蔵神父

先日、長崎県五島の江袋教会が去る2月12日に焼失したことをカトリック新聞の報道で知った。すぐにわたしは江袋が、鹿児島の教会の開拓者であり創立者である島田喜蔵神父の生誕の地であり、五島最古の江袋教会が五島最初の司祭・島田神父が初ミサを捧げた記念の教会であることを思った。また、25年ほど前の1981年、鹿児島における宣教再開100周年の記念の年に訪ねたこともあり、江袋教会の焼失を大変残念に思った。

これを機会に、わたしは改めて島田神父の数奇な生涯を振り返ることにし、神父自身の口述をもとに編まれた伝記、『隠れキリシタンから司祭に―トマス島田喜蔵神父の生涯』(中田秀和著、中央出版社=現サンパウロ、1981年)を紐解いたが、それは、「信徒発見」によって復活する日本の教会の躍動と発展の時代と重なる生涯であった。

1―鹿児島ザビエル教会の創始者

トマス島田喜蔵神父が、当時のクゼン長崎司教の命を受け、鹿児島に教会を開くべく当地に入ったのは1890(明治23)年、34歳のときであった。「一日も早く鹿児島にカトリック教会を」という島田神父自身の念願が叶っての鹿児島派遣であった。島田神父はまず旅館の一室を借りて「天主公教会」の看板を掛けて宣教を開始、その年の8月15日、聖母被昇天祭には早くも12人の洗礼があった。そして翌1891(明治24)年、城山のふもと近く、町の中央に位置する旧藩の剣道道場の土地建物を購入して改造し、教会とした。ここが現在の鹿児島カテドラル・ザビエル教会である。島田神父はまた、自分で育てた信徒を通して、奄美大島の宣教を開始し、宮崎にも教会を開いた。

かつてはザビエルによって開かれた鹿児島の教会が、こんどは邦人司祭によって再開された事実をわたしは重視している。当時の鹿児島について島田師は語る。「当時の薩摩隼人の気性は一風変わっていた。それに西南戦争後の鹿児島は殺気立っていて浪人風の若者や無頼の徒が多かった」。島田神父は土地の人々の気風や感性を緻密に研究して、街頭説教はいっさい行わず、看板を見て訪ねてくる人を礼節を尽くして温かく迎え、日本人好みの道理詰めで教えを説き、人々の心を捉えた。こうした師のやり方は、潜伏キリシタンゆずりの強い信仰と、迫害の嵐をくぐりながら耐えて励んだ勉学と修練のたまものであった。

2―島田神父の生い立ち

島田喜蔵神父は1856(安政3)年3月15日、上五島の江袋で、潜伏キリシタンの文作、自勢の長男として生まれた。五島の潜伏キリシタンは、1797(寛政9)年、28代五島盛運の「千人の貰い人」が行われた機会に、「藩の厳しい迫害と乳児間引きを逃れるため」、大村藩外海地方から競って移住した人々である。喜蔵少年は叔父に当たる「帳方」のもとでその跡継ぎを目指して手習いを始めていたが、長崎開港とともに宣教師が渡来して1865年には大浦天主堂ができ、「信徒発見」を通して県下に広がる潜伏キリシタンのカトリック復帰が始まるや、喜蔵少年も母の勧めに従い、1867(慶応3)年、長崎に行って洗礼を受け、これを機に一家は神棚を破棄して潜伏に決別した。

3―悪条件の中の神学生生活

当時、日本の教会の再生のために派遣されて活躍したのはパリ外国宣教会の司祭たちであった。宣教会は、邦人の教区司祭を養成して開拓した教会の後事をこれに託すのを目的にしていたので、天主堂落成の翌1866(慶応2)年には、早くも司祭館の屋根裏、「無原罪の御やどりの間」に神学校を開設した。それに応えて、5代250年にわたって一人の司祭もなく潜伏して迫害に耐え、司祭の到来を待ち焦がれていた長崎のキリシタンたちは、進んで子弟を神学校に送って協力した。島田少年も洗礼を受けた年の夏、11歳で神学校に入った。

しかし、時あたかも浦上四番崩れの年であり、厳しいキリシタン探索の手が伸びて司祭館の屋根裏も危険になり、以来、五島の久賀島、香港、横浜のフランス人居留地と逃げ回って勉強を続け、ようやく1873(明治6)年、キリシタン禁制の高札が撤去され、信仰の自由を取り戻した神学生たちは、晴れて東京神田に新設された神学校に移った。そして1875(明治8)年、大浦天主堂横に四階建ての神学校が落成すると同時に、島田神学生は長崎の神学生10名とともにここに移った。8年ぶりの長崎であり、安住の地であった。こうして、1882(明治15)に深堀、有安両師が長崎では実に270年ぶりの邦人司祭として叙階され、続いて1887(明治20)年、第二陣として島田喜蔵師は4人の仲間とともに司祭叙階を受けた。30歳であった。

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ザビエルが1549年に建てたわが国初の鹿児島のカトリック共同体は、百年後の1649年、鹿児島キリシタンの中心人物、カタリナ永俊尼の死とともに消滅したと言われる。その鹿児島に242年ぶりの教会を復活させたのは、紛れもなく島田喜蔵神父である。だが島田神父は、偉大なザビエルの陰に隠れて、正当に顕彰されることはなかった。188人の日本殉教者の列福も近い今、キリシタン復活時代に活躍した先達たちにもあらためて光を当て、また教区司祭の養成にもあらためて熱意を新たにしたいと思う。