キリストの復活・新しい創造
カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/04/01/ 00:00]
復活祭がもうすぐやってくる。今年は4月8日である。周知のとおり、キリストの復活を祝う復活祭は、キリスト教の年間の祝祭の中心であり、頂点である。同時に、キリストの復活は「週の復活祭」として日曜日ごとにも祝われる。復活祭とは何か、その意味についての問いに対して、前教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『主の日』の序文の次の言葉から答えを探ってみたい。
「日曜日ごとに巡ってくる復活祭は、キリストが罪と死に打ち勝ったこと、キリストにおいて第一の創造が完成したこと、そして新しい創造が始まったことを祝います。この日は、感謝に満ちた礼拝を行って、世界が造られた最初の日を思い起こす日です。また、キリストが栄光のうちに来られ、すべてのものが新しくされる終わりの日を、熱烈な希望をもって待ち望む日です」(『主の日』1)。
日曜日ごとに祝う週の復活祭の意味は、優れて年一度の復活祭の意義でもある。第一に取り上げたいのは、キリストの復活が「第一の創造の完成」であること。第一の創造とは、「はじめに神は天と地を造られた」と創世記の冒頭に語られる最初の創造のことであって、「神はそれを見てよいとされた」(創世記1,25)傑作であったが、残念ながらそれはサタンの裏切りと人間の自由の乱用によって堕落し、罪と死に覆われ、苦悩に満ちたものとなった。この不幸な世界を、キリストはその死と復活によって新たに造り直し、遂に神がはじめに目指した世界創造の究極の目的を達成したのである。
こうして、キリストの復活は第一の創造を完成する「新しい創造」と呼ばれる。つまり、「眠りについた人たち(死者のこと)の初穂」(1コリント15,20)として復活したキリストにおいて世界は完成されたのである。しかし、この世界の新しい創造はキリストの復活の実りとして、そのあとに始まる。だから、「キリストの過越(復活)秘義は、世界の始まりの神秘を完全に啓示するものであり、また、世界の終末における完成を先取りするものです」(『主の日』18)と教皇は言われる。
次に、「復活祭は新しい創造が始まったこと」(2コリント5,17参照)について考察しよう。復活して昇天したキリストは、御父とともに復活の実りとしてこの世に聖霊を派遣し、聖霊によって顕現し生かされた教会を通して「新しい創造」を始められた。だから現在、世界は新しく造られている最中であって、いわば「旅の途中」にある。
世界の新しい創造の完成は世界の終わりに行われる。すなわち、そのときキリストが再臨し、すべての死者が復活し、裁きが行われ、義人たちは永遠のいのちの国に迎えられて世界は完成する。これを神の国の完成と言い、「新しい天と新しい地』(黙示録21,1)が到来する。従って、この地上の国自体には究極の完成の日はない。万物は復活したキリストに結ばれてはじめて究極の目的に達する。だからキリストは言われた。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」(ヨハネ11,25)。この信仰とはすなわち人間の側の協力を意味する。聖アウグスチノは言う。「神はわたしなしにわたしを造られたが、わたしなしにわたしを救われることはない」と。この信仰は洗礼において実現する。だから、復活祭は各自の洗礼の記念でもある。
最後に、復活祭は、「キリストが栄光のうちに来られ(使徒言行録1,11、1テサロニケ4,13-17参照)、すべてのものが新しくされる(黙示録21,5参照)終わりの日を、熱烈な希望をもって待ち望む日です」(『主の日』1)という言葉に注目しよう。いうなれば、この希望は「わたしたちの復活」の希望に他ならない。この希望がある限り、たとえこの地上にどんな不条理がまかり通り、死の壁に阻まれようとも、人生は明るい。そして、この希望のうちにこの世にかかわり、この世の務めに励みながら、終末の日の復活に向けてすべてを準備し、整えるのである。しかし、この希望はひとえにキリストの復活にかかっている。聖パウロは言う。「キリストが復活しなかったとしたら、わたしたちの宣教は無意味なものであり、あなたがたの信仰も無意味となるでしょう」(1コリント15,14)。
幸いに、わたしたちはキリストの復活を信じる恵みを受けた。だから、復活祭がくると、キリスト者はわくわくしてこの日を迎える。自分のためにも、他人のためにも。