「白衣の天使」が「カラフル天使」に
カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/06/06/ 00:00]
今わたしは看護師について特別の関心がある。それは自分がたびたびお世話になるというばかりではない。実は、来る11月、鹿児島純心女子大学を会場として開かれる「第49回日本カトリック看護協会全国大会」で「カトリックナースの使命」と題する講演を頼まれているからである。頼まれるといやと言えない性質なのでなんとなく引き受けてしまったのであるが、だんだんと気になってきた。畑違いのわたしには、まず「看護師の使命とは何か」ということが分かっていないのだ。
「看護師と聞いて、“医師の仕事を補助する仕事”とイメージする人が多いかもしれません。しかし、近年、医療現場の高度化に伴い、看護師の仕事はより専門性の高いものになりつつあります」。これはある日の朝日新聞「学部選び大辞典広告特集」の一節である。こんな一文を読むとますます不安が募る。看護学部の教授でもないわたしは、「看護師の専門性の高い仕事」といわれてもちんぷんかんぷんなのである。だれか教えてくれませんか。
でも、いくらか希望はある。職業は畑違いでも、カトリックナースとカトリック司教との間には共通する何かがあるからだ。それは、同じカトリック者として、人のいのちに仕えるという使命は共通しているのである。わたしに講演を依頼してきた鹿児島カトリック看護協会の責任者たちも、おそらくこの共通性と専門性に期待されてのことであろうと、実は考えている。
カトリック教会が宣べ伝えているキリストの福音は「いのちの福音」である。故教皇ヨハネ・パウロ2世は書いている。「イエスはあがないの使命の真髄を、こう説きます。『わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである』(ヨハネ10,10)。実にイエスは、父との交わりの中に存在するあの『新しい』『永遠の』いのちのことを言っているのです。すべての人は、聖霊の清める力のもとに、御子において、自由にそのいのちにあずかることができます。人間のいのちのあらゆる局面と発達段階が十分にそれぞれの重要さに達するのは、まさにこの『いのち』においてなのです」(『いのちの福音』1)。
ここに言われている「永遠のいのち」は看護師たちが日々仕えている患者たちのこの世のいのちの中に、そしてその延長線上にあるもので、中世の「天使的博士」聖トーマス・アクイナスが「恩寵は自然を破壊せず、かえってこれを完成する」と言うとおりである。キリストの福音がもたらす「救い」は、ラテン語では「Salus」、直訳すれば「健康」を意味する。従って、看護師が目指す患者の身体の健康は、我々カトリックの聖職者が目指す人間の魂の健康に結ばれて、キリスト教信仰が教えるとおり、「終末におけるからだの復活と永遠のいのち」によって、心身の健康が同時に、完全に達成される。
わたしはここ20年ぐらいの間に、短いのを加えれば4回入退院し、今も通院して多くのドクターやナースのお世話になっている。みんな親切で誠実にお世話してくださった。特に、6時間に及ぶ大動脈瘤の摘出手術を受けたときなど、現代医療技術のすごさと有難さに感動したものだった。いま日本では医師の全体数不足と偏在が問題となり、看護師不足を補うためフィリピンから大勢の看護師の応援を受けるという報道もある。しかし、身体的にも精神的にも、この世のいのちも来世いのいのちも、健康は人間最大の価値であり、そのいのちに仕える看護師たちの、呼び名や衣服は変わっても、その変わらぬ使命に、あらためて感謝と激励の言葉を贈りたいと思う。