教皇庁大使の神宮訪問に因んで

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教皇庁大使の神宮訪問に因んで

カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/06/21/ 00:00]

神社の鳥居

神社の鳥居

駐日教皇庁大使らが伊勢神宮など訪れたことをカトリック新聞の投書やニュース記事で知った。このニュースを最初に報じた『神社新報』の記事で使用された「参宮」とか「参拝」とかいう表現が誤解を招き、カトリック新聞の投書のほか、インターネット上でもちょっとした議論があったようだ。この誤解は、大使の訪問において神道方式の拝礼はなく、単に日本文化を知るための訪問であったという関係者の証言がカトリック新聞に報道されて、一応解決したと思う。しかし、諸宗教が共存するこの宗教多元社会においては、今回のような誤解を避けるためにも、諸宗教に対する教会の態度についての正確な理解が重要だと思う。

二千年に亘る歴史において、教会はさまざまな宗教と出会い、時と所の事情に応じて賢明に対処してきたが、時として護教のため、あるいは宣教熱心のため行過ぎも見られた。しかし、現代の教会は、聖書に示された神の普遍的救済意思と、初期の教父たちの開かれた態度等の伝承に従い、諸宗教に対する対話路線を確かなものとした。それは、第2バチカン公会議とその後の教皇たちの教え、特に『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(以下諸宗教宣言)』(1965年10月28日)において諸宗教に対する教会の基本姿勢が簡潔に述べられ、次いで教皇庁諸宗教評議会・福音宣教省の『対話と宣言』(1991年5月19日)において「諸宗教間の対話とイエス・キリストの福音の宣言をめぐる若干の考察と指針」が詳しく説明された。ヨハネ・パウロ2世は「諸宗教間の対話は、教会の宣教使命の一部である」(回勅『救い主の使命』55)と言明している。

教会が対話路線をとる根拠は、何よりも人類が一つであり、唯一の起源と唯一の最終目的を共有する一つの共同体であるという確信にある。第2バチカン公会議は言う。「神は全人類を地の全面に住まわせられたので(使徒行録17,26)、すべての民族は一つの共同体をなし、唯一の起源を有する。また、すべての民族は唯一の終極目的を持っており、それは神なのである」(諸宗教宣言1)。要するに、民族、文化、宗教の違いを超えて、すべての人が神の愛によって愛のために造られ、神の元に一つの神の民として集まるように呼ばれているということである。

そのため、すべての人の心の中に神についてのある種の感覚や認識が見られると教会は言う。そのような宗教的感覚や認識は伝統的な諸宗教の中に表現されており、教会はそこに「みことばの種」と「聖霊の働き」を認めてきた。その上、教会は、たとえ思想信条は異なっても、人がその良心に従って神を求め、善を行うとき、自らに落ち度がない限り、神のみが知る仕方で救いに達すると確信している。それゆえ、現代の教会は諸宗教に対して敬意をもって心を開き、積極的に対話の場を求めて互いの理解を深め、ともに学びあって真理を探究し、人権・福祉や世界平和など共通の目標のために協働する。

しかし、こうした諸宗教の中にあるものがすべてよいものであり、真実のものであるいう保証はない。人間の理性が神の真実を知るには限界があり、聖書の教えによれば人間は原罪によって傷ついてもいる。その上、彼らの中にある「み言葉の種」も「聖霊の働き」も、救いに必要なキリストへの信仰と超自然の恩恵に方向付けられてはいるが(福音への準備)、まだそこに達してはいない。従って、教会が進める諸宗教との対話は、単なる妥協や混合主義ではないから、相互の違いを正しく識別し、教会の信仰を正しく伝えることが求められる。つまり、教会は「宗教間対話」と並行して「福音の宣言(告知)」を行うのである。

第2バチカン公会議後、歴代の教皇は自ら、また「諸宗教対話評議会」を通して諸宗教との対話に力を尽くし、わが国においても、司教協議会の諸部門や各教区における宗教間の対話や協力をはじめ、神学や霊性の専門家たちによる交流も徐々に行われている。しかし、それと同時に、草の根レベル、すなわち日常生活におけるキリスト者と多様な思想信条をもつ人々とのいわゆる「生活の対話」は重要である。前教皇は言う。「信者一人ひとりとすべてのキリスト者の共同体は、宗教間対話を実践するよう招かれています」(回勅『救い主の使命』57)。世俗化が広がっているとはいえ、多くの人に中に宗教は生きているといわれる。だから「生活の対話」は事実上行われているわけだが、その意識を折々に新たにすることはいっそうの実りをもたらすことになろう。