原爆体験と長崎の祈り

原爆体験と長崎の祈り

カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/07/25/ 00:00]

「長崎の教会」主宰者提供

大浦天主堂

8月は戦争を想起し、平和を祈る季節である。6日の広島原爆から、9日の長崎原爆を経て、15日の終戦記念日にいたる10日間は、日本の教会が設定した「カトリック平和旬間」でもある。今年は特に長崎における被爆体験を思い出している。

あの日の朝、わたしは大浦天主堂横の神学校にいた。爆心地から4,3キロのところにあるこの神学校は、キリシタン禁制の高札が撤去されてキリスト教信仰が解禁された2年後の1875(明治8)年に開設された木造四階建ての由緒ある校舎で、キリシタン復活後最初の日本人司祭たちを初め、全国の多くの司祭たちがここに学んだ。わたしは太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年にこの神学校に入学し、1945(昭和20)年3月に通学していた旧制中学を繰り上げ卒業した。続いていた三菱長崎造船所への学徒動員も7月いっぱいで終わり、その日の朝早く、神学生としての新たな動員先の小さな木工所の入所式を終えたばかりだった。

入所式から帰宅してその日の朝刊に目を通した。一面には「広島に新型爆弾、甚大な被害」という見出しが躍っていた。それが広島に落ちた世界最初の原子爆弾であることを後で知った。長崎にもその新型爆弾が落とされようとしていることを知る由もない。その直後である。警戒警報のサイレンが鳴り、B29の爆音を聞いたのは。外に出て機影を探そうと目を上げた途端、ピカッと強い閃光が走り、あわてて近くの防空壕に逃げ込んでしばらくすると、ドーンという轟音と共に爆風が壕の中に突っ込んできた。恐怖のあまりじっとしていると、しばらくして天主堂の小聖堂の屋根が音を立てて落ちた。ようやく壕の外に出て浦上方面を見やると、一面の煙が街から稲佐山の山肌まで広がっていた。

午後何時ごろであったか、爆心地近くの工場に動員されていた一人の神学生が担ぎ込まれた。見ると、真っ黒焦げでだれだか判別できない。両腕の皮膚は浮き上がり、足の裏の皮膚ははがれて垂れ下がっていた。声を掛け、返事を聞いて、ようやく一学年下の山田君であることが分かった。しばらくしてもう一人の神学生が近くの防空壕に倒れているとの通報があった。担架を担いで駆けつけてみると、それはパンツ一枚で筵に横たわっている石橋君であった。そのうち山野君も焼け爛れて帰ってきた。3人の神学生はそれぞれ自分たちが掘った防空壕に収容され、形ばかりの看護を受けた。そして翌朝、石橋君がお父さんに看取られて息を引き取り、山野君は13日の晩、山田君は14日の朝早く亡くなった。この二人をわたしたちは神学校裏の丘にこの手で墓穴を掘り、埋葬した。

あの日から半年も過ぎたあるとき、神学校を訪ねてくださった永井隆博士から原子爆弾の仕組みについて説明を受けたことがある。原子爆弾の原理は日本でも知られていたと言い、マンガを描きながらの説明は分かりやすく、原爆についてのわたしの知識は今もそのときのままである。

原爆の後、長崎のキリシタンは胸を打ちながら神のゆるしを願い、静かに世界平和を祈った。広島のようになぜ怒らないのかとの批判も聞こえてきたが、わたしたちは動じなかった。1981年に訪日した教皇ヨハネ・パウロ2世は、広島で「戦争は人間の仕業です」と平和メッセージの冒頭で述べたが、まさにそのとおりで、詰まるところすべて戦争は人類の罪の結果であり、わたしたちは敵味方の違いを超え、胸を打ちながら、悔い改めて神のゆるしを請わなければならないのである。それと共に、長崎のキリシタンは原爆で受けた心身の痛みを罪の償いとして、また、世界平和のための尊いいけにえとして甘受し、キリストの十字架のいけにえに合わせて御父にささげたのである。

わたしはこの長崎の祈りが好きだ。キリスト者にとって世界平和への取り組みの第一歩は回心であり、キリストの平和の福音を宣べ伝えること自体が真の平和運動である。戦争の責任を他者または他国に転嫁して非難しあうことではなく、ゆるし合い、すべてを分かち合うことの中にこそ、真の精神的秩序、真の平和への道があることを、あらためて心に銘じたいと思う。