信仰は理性を浄化する
カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/10/10/ 00:00]
「信仰は理性を浄化する」という教皇の言葉を読んで、わたしは深い感動を覚えた。ルネッサンス以来、信仰に対する理性の自律が主張され、信仰と理性とは対立するものであるかのような錯覚が知識層に蔓延した。しかし、教会はつねに信仰と理性は両立し、互いに補完し合う立場にあると強調してやまなかった。人間理性は神の知性への参与(participatio)であり、従って、理性による確かな発見は、真理であるとして信仰はこれを躊躇なく認める。しかし理性には本来限界があり、これを補い、完成するのは信仰の使命である。「恩寵は自然を破壊せず、かえってこれを完成する」(聖トーマス)。
さきごろ、ジェームス・ワトソン著『DNA』上・下(2005)を読んだ。ワトソンは1953年、DNAと呼ばれる分子が二重螺旋構造であることをフランシス・クリックと共同で発見したノーベル賞分子生物学者である。彼は序章の中で、「生命は化学の問題に過ぎなかった」と述べ、生命の神秘を解き明かしたと高らかに宣言している。しかし、この二冊の本のどこにも、人間の生命がどこから来てどこへ行くかについて一言も語らない。分子生物学は生命の分子構造を解明し、遺伝子組み換えには有能でも、生命の神秘を余すところなく解明することはできない。神秘は科学の領域をはるかに超えているからである。
知り合いのある小児科の先生はいつか言った。「科学の体系は一見完全であるように見えるが、実際は重要な部分が抜けており、その欠落部分を仮説でつないでいる」と。第一に、進化論についての科学者の説明は、すでに世界があり、生命があったことを前提に話を始める。ちょうど昔話が「昔々あるところにおじいさんとおばさんがおりました」で始まるように。第二に、進化の過程について推測を交えて見てきたかのように話す。先日の朝日新聞のコラムで、ある生命科学者が「生命の進化をどの子も学んで」という一文の進化論の説明に「奇跡と幸運の積み重ね」とか「奇跡的な歴史」とかの表現を使用していたが、そんなのは科学的説明とは言えないだろう。それぞれの自然に自律性を与えた創造主の叡智と愛(摂理)を組み合わせれば、進化論にも芯が通って話しは完結するはずである。
このように、信仰は理性を補完し、完成する。しかし、ベネディクト16世はさらに、信仰は理性を浄化すると言われる。どういう意味だろう。これは人間理性が神の知性の参与である反面、原罪によって傷ついており、判断がしばしば欲望に左右されることを意味している。そして、ここに取り上げた教皇の発言は政治に対する教会の使命に関連して語られた。「政治の起源と目的は正義にあります。正義とは何か。それは実践理性の問題です。しかし、理性を正しく働かせるために、わたしたちはたえず理性を浄めなければなりません。理性は、権力と特定の利益の誘惑によって、倫理的な盲目に陥る危険につねにさらされているからです。ここで政治と信仰が出会います」(『神の愛』28)。
教皇は、この「信仰と政治の出会い(接点)」は「教会の社会教説」にあると指摘し、そして言われる。「カトリック教会の社会教説は、教会の権力を国家に及ぼすことを決して意図していません。ましてそれは、同じ信仰を持たない人に信仰に基づく考え方や生き方を強制しようとするものではありません。カトリック教会の社会教説は、ただ、理性を浄めるための助けとなり、今ここで正義を認め、実現するための役に立つことを望むに過ぎません」(同上)。
昨今、日本の政治は低迷している。そこで気になるのが政治家の理性(政治哲学や倫理観)である。目先のことにとらわれて全体を見ていないことが多すぎる。改革、改革と唱えながら部分(経済)しか見ていない。市場原理主義は政治の目的である国民の正義(共通善)の破綻を招く。対話、対話と強調しながら圧力しか考えない。本来自由かつ対等であるべき対話に圧力をかけることは対話の否定である。政治の本質や目的を徹見し、そのための正しい手段を選択する哲学や倫理観の弱さは、案外日本政界の泣き所かもしれない。
そこで教会の使命だが、神の視点に立ち、的確な実践理性を政治にもたらすため、信徒たちの働きを通して「信仰による理性の浄化」を進めなければならない。そのため、教会の社会教説の研究と実践に向けた信徒たちの活躍が強く望まれる。教皇は信徒を励まして言われる。「直接に社会の公正な秩序を築くことを固有の使命としているのは、信徒です」(回勅『神は愛』29)。